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本日発売の「男の隠れ家」誌11月号「音の書斎」特集で代々木の仕事場が紹介される。
私の書斎兼仕事場は、机とピアノと本棚と作業机とを操縦席のコックピットのように並べた三畳間ほどのスペース。それはもう、中学生の時に初めて勉強部屋をもらって以来ずう〜っと(かれこれ40年近く!)このスタイルで、何度引っ越して部屋がどういう形に変わっても、この並びだけは変わらない。もはや、この形こそが脳とか手足とかと同じく体の構造そのものと化していると言っていいかも知れない。
で、こういう取材を受けるたびに必ずこう言われる。「部屋って、その人が出ますよね」。
確かに私の部屋は、最新のパソコンやモニタなどのハイテク機器がある割りには、中学生の頃から使っている父親のお下がりの木の勉強机や、高校生の時に工作で作ったベニヤ製の楽譜棚などが並んでいて、古いも新しいも…昭和初期も70年代も21世紀も…ゴッチャの世界。まさしく私の音楽と一緒だったりする。
そのうえ、CDやら本やらDVDやらガラクタやら玉石混交の雑多な代物が整理されるんだかされていないんだか分からない並び方でびっしり並ぶさまは・・・うーん、確かに自分の頭の中を覗いているようだな・・・(笑)
まずは母が作品を出品している美術展(京都文化博物館での「明日へのかたち展」)に寄る。今回は6枚組のミニアチュア風ポートレイト。
そのあと、天気が良かったので高雄まで足を延ばす。高山寺・神護寺あたりはあまり人もおらず、静かな良い風情。なにより空気がしゅんと涼やか。
しかし、嵯峨野のあたりまで降りてくると、さすが京都、観光客の群れに遭遇し始める。 まあ、日曜日だから仕方ない。なるべく人のまばらなところを探して庭など散策する。
*
翌月曜日は、太秦の広隆寺に行き、ひさしぶりに弥勒菩薩を拝む。今度の邦楽作品CDのジャケットにちょっとお出まし願おうかと考えているので、ご報告?がてら御参り。
仏教への信心はさらさらないが、この菩薩像だけは吸い寄せられるように見入ってしまう。 モナリザ以上の謎と慈悲を秘めた微笑の美しさ……
…と、太秦まで来て、近くに東映の映画村があることを思い出し、ちょっと寄ってみる。 そう言えば、京都の名所?の中で、ここだけはまだ行った事がなかったのだった。
しかし、これがなかなか面白い。映画で見たことのある宿場町や長屋や吉原や芝居小屋などがオープンセットで並んでいて、確かに江戸時代にタイムスリップした気分になる。
いいなあ。このままここで縁側で猫を抱いて日向ぼっこしながら長屋の隠居として暮らしたい(笑)。
生前のご苦労がしのばれる苦虫をかみつぶしたような写真しかない中で、ようやく笑顔の写真をゲット。
彼の音楽が果たして今の世に理解されているんだかいないんだか、実を言うとよく分からないけれど、著作権が生きているクラシックの作曲家としてはダントツの人気で演奏されていることは確か。
ただ、13番が最新作だった頃から聴いている私などから見ると、かつては巨大国家ソヴィエトを代表する御用達作曲家として危ない社会主義に利用され、今は逆に隠れ反体制作曲家として怪しい人道主義に利用され、おまけにプライベートな暗号を胡散臭い作曲家に解読され(それは、おまえだ?…おっと、そうでした)…というあたりについては、ちょっとご同情申し上げたいところ。
というわけで、胡散臭い作曲家を代表してお祝いの辞?をひとつ・・・
作曲家は、
生きている間は食えないけれど、
死んで100年ほどたてば、
ほどよく腐って、食べごろになる。
解説を担当しているNHK-FMの「シンフォニー・コンサート」10月分3回を収録。その中に1曲、この番組にしては珍しく現代モノ・・・エストニアのトゥール(1959〜)という現代作曲家によるチェロ協奏曲(1996)・・・が混じっていたのだが、興味深かったのは独奏者のゲリンガス氏が電子チェロ(YAMAHAのサイレント・チェロ)を弾いて演奏していたこと。
電子チェロと言ってもエレキギターのようなものではなく、胴体の無い(透明な?)チェロそのものの形をしている。ネックや指板や駒のあたりはチェロと同じで、弓で弾くのも同じ。ただ、弦の振動をピックアップで電気信号に変え、音色を調整し残響を付加してアンプを通してスピーカーで鳴らす。ヘッドフォンやアンプを繋がない限りは音の出ない「サイレントなチェロ」というわけだ。
確かに、コンチェルトを作曲する場合、独奏楽器の音がバックのオーケストラに消されないかどうか…というのは作曲家が最も頭を痛めるポイント。私も、ギターとかファゴットとか尺八とかチェロとか…いろいろ苦労したので身につまされる(笑)。
単に楽器の前にマイクを置いてアンプを通すと、ハウリングを起こしたり後ろのオーケストラの音も拾ってしまったり、音色をコントロールできなかったりしてなかなか難しいのである。第一、当然ながら演奏家が(クラシックの音楽家はスピーカーから出て来る安っぽい音に拒否反応を示す人が多く)とても嫌がる。
それが、最初から電気増幅が前提の楽器で、かつアンプに繋いでいくらでも大きな音が出せるというなら、3管フル編成オーケストラがフォルテを鳴らしている前で単音メロディ…などという表現も出来ることになる。もちろん既にポップス系の音楽では使われているが、クラシック界でももっと普及したら面白いことが色々出来そうだ。
放送はNHK-FM10月15日(日)14:00からの予定。
どうして頭の上にピアノがぶら下がっているのですか?というお問い合わせがありましたが、それにはこんなわけがあるのです。
私の曲は、別にブルックナー先生のように〈原典版〉だの〈改訂第2稿〉だの〈ノヴァーク版第3稿〉だのと面倒くさいことをやっている覚えはないのだが、それでも13年も前に書いた作品(オリオンマシーン)をまた来月演奏することになって、ちょっとややこしい事態が発生。
実は、この曲、小さな修正が数ヶ所だけとは言え、細かく言うと下記の4つの「異稿」が存在することになるからだ。
1.〈初稿〉書き上げた直後オーケストラに渡した手書きのスコア。
2.〈修正稿〉初演時に鉛筆で部分的な直しを書き込んだスコア。
3.〈改訂稿〉その直しを元にちゃんと書き直して清書したスコア。
4.〈最終稿〉新たな修正部分を追加校正した最終的なスコア。
本来なら、最後の〈最終稿〉のみをOKとして、残りはすべて回収・破棄すればいいのだが、厄介なことに1,2,3,4のそれぞれに数部ずつ、写譜や練習や録音などで使うために複製コピーを作成している。ということは、最低でも十数部のコピーが出回っていていて、ちょっと目にはどれがどれやら区別がつきにくくなっているわけなのだ。
もう何度も演奏されているしCDも国内外で二種類ほど出ていて今さら何を?という感じだが、そんなわけで、「18ページでトロンボーンがソロになっているのが〈初稿〉で、ヴァイオリンのユニゾンになっているのが〈修正稿〉で、ディヴィジになっているのが〈改訂稿〉で…」などと電話で説明するハメに。
これは確かに作曲家が生きていないと分からないかも・・・
いや、作曲家が生きていても分からないかも・・・(^_^;)。
1.少年法について。「20歳未満の犯罪は当人にまだ更生の余地があるから保護する…っていうのは、まあ、異論はないやね。でも、殺人だけは別だわな。なぜかと言うと、盗みとか傷害の被害なら立ち直れる余地があるけど、殺されたらこれはもう100%生き返る余地がないわけだろ。だから、公正に見て、窃盗や傷害はセーフでも、殺人罪だけはアウト。少年法の保護の対象外とすべきだとオレは思うね」。ふむふむ、なるほど。
2.最近の事故について。「すべての職種でプロ意識が無くなってる…ッてのは確かだけど、子供が事故で死んだり、あるいは家族が医療ミスで死んだり、事件に巻き込まれたり、そのたびに被害者の遺族というのが出て来て、会社とか国とか医者とか警察とかをとにかく非難する。あれはおかしいわな。むかしの父親っていうのは、例え自分の子供が一方的な被害者でも、まず〈世間さまに御迷惑をおかけして申し訳ありませんでした〉と謝ったものさ」。じゃあ、アナタは自分の娘が殺されても、被害者にも警察にも恨み言ひとつ言わないと?「とんでもない。オレはこの手で相手を殺してやる!…って、そう言う。それが父親ってもんさ」。なんじゃそれは?。
3.皇室について。「オレ個人としては、女性天皇もいいなあと思うよ。でも、天皇家っていうのは2600年もの間、それこそ貴族社会から戦国時代やら武家社会やら尊王攘夷やらさまざまな倫理観を持った幾多の時代をかいくぐって、なおかつあの戦争に負けても消滅せず男系を通した奇跡の系図だろ。だから、天皇たるもの超法規的措置で何人も側室をもらいスペアをあちこちに隠し持ったうえ、人工授精でもクローンでも試みて男子を確保するべきなのよ。でも、現代という時代のみみっちい倫理観では、その可能性すら問題外で抹殺されるわな。つまり、こんな選択肢や議論の余地のない、根性も思想も説得力もない時代はないんだわ。だから、この件については何をいくら議論しても結論なんか出ないとオレは思うね」。でも、それじゃあ天皇家が途絶えちゃうンじゃ…?。「いや、かしこみカシコミの家系だからね、もしもの時には神風が吹くのさ。その証拠に、ほら、男が生まれたろ?」。そ、そうなのか?。
Blog「月刊クラシック音楽探偵事務所」更新。
今回は、ショスタコーヴィチの傑作オラトリオ「森の歌」を深読みするお話。
ショスタコーヴィチの暗号については、交響曲第10番の暗号のように明白に解読可能なものもある一方、かなり怪しげな「こじつけ解読」(と自分でも思うもの)もあって、これはそのひとつ。
でも、こと音楽に関する暗号は、怪しげな方が面白い。作曲家は諜報部員ではないのだから、解読されてしまったら身もフタもない明々白々な暗号より、「そう聴こえるならそうかも知れないし、そう思えないならそうでないかも知れない」…という仕掛けの方が楽しい。
というわけで、音楽探偵事務所はまだまだ怪しげな解読を続けて行きますので、お楽しみに。
ちなみに、「Blogでショスタコーヴィチについて書きます」と言ったら、「森の歌もよろしく」と一言アリ。・・・ある年代から上の人は大笑いで納得。でも、知らない人にとってはほとんど暗号か(笑)
〈追記:本日よりBlogのデザインを黒っぽくシックに?変えてみました〉
横浜近郊の上大岡「ひまわりの郷」ホールで、邦楽作品2曲の録音セッション。
・星幻譜 op.97(笙&二十絃+風鈴)
・風夢の舞 op.98(尺八&二十絃)
両曲ともに書き下ろしの新作で、今回が録音初演。演奏は、二十絃:吉村七重、田村法子、尺八:三橋貴風、笙:三浦礼美のみなさん。ちなみに、作曲者も風鈴で演奏に参加(と言っても、曲の最初と最後にちりん…と鳴らすだけなのだが)。録音:カメラータ・トウキョウ。
「星幻譜」は笙と二十絃によるゆっくりきれいな雅の世界。対して「風夢の舞」は尺八と二十絃による変拍子炸裂の七変化舞曲集。この3月に録音した「星夢の舞」とのカップリングで、今年中にはCDになる予定。
須川展也サクソフォン協奏曲コンサート(東京オペラシティ)で、拙作ソプラノ・サクソフォン協奏曲〈アルビレオ・モード〉の東京初演と〈サイバーバード協奏曲〉を聴く。
本多俊之、E.グレグソンの協奏曲も含めて、すべて彼の委嘱作で固めた画期的とも言うべきコンチェルト・リサイタル。
東京フィルの美しいサウンドに包まれた抒情派〈アルビレオ・モード〉の後、最後に演奏されたおなじみの〈サイバーバード協奏曲〉は、確かに「絶対外さない最強の自信作」ではあるのだけれど、それでも演奏が終わった後の「うお〜」というような歓声と熱狂的なスタンディング・オベーションにちょっと鳥肌が立つ。
彼と最初に会った15年前(1990年頃)は「クラシックのサクソフォンなんて、〈ボレロ〉や〈展覧会の絵〉でツマミに使われるだけの楽器」という印象だったのだが、〈ファジーバード・ソナタ〉を足がかりにして見事に因習を打ち破り未来への道を切り拓き、長年付きあってきた作曲家としては「ああ、ここまで来たか」と感慨しきり。今回のリサイタルは彼にとってもサクソフォン界にとっても燦然と輝く里程標となるだろう。
それにしても音楽家は「体力」だなあ…とも改めて実感する。フル・オーケストラをバックにして協奏曲を4つ、2時間全力疾走…というのは、アーティストであると同時にアスリートとしての鍛練も必要だからだ。
そう言う作曲家だって、体力がなければ力作は書けない。私としては・・・確かにもう〈サイバーバード〉みたいな力技の曲は書けないなあ・・・。あとは老体にむち打って晩年の枯れた境地を目指すか・・・げほげほ(笑)
◇写真は、須川氏のHPより、本番前の3ショット。左より〜須川展也氏、吉松、東京フィルのコンサートマスター:荒井英治氏。