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昔から、年末というと毎年必ず「バイロイト音楽祭」の録音がNHK-FMから流れていたせいで、ワーグナーの「ニーベルングの指環」が聞こえてくると「いよいよ年の瀬」という気がしてくる。「パブロフの犬」ならぬ「ワーグナーの指環」である(笑)。
昨日の夜は第2夜の「ワルキューレ」が流れていたから、今日の夜は「ジークフリート」。そして31日の大晦日が「パルジファル」。もっとも、現実のバイロイト音楽祭は7月8月の夏に開催されているので、ヨーロッパのワーグナー党にとっては「指環」はむしろ夏の風物詩?なのかも知れないけれど。
それにしても、「第9」と言い「指環」と言い、肥大してその先どこにも行くところがなくなったデッドエンドの袋小路的な作品…という点で、実にこの2作は「年の瀬」にこそふさわしい気がする。
世の中すべて、始まったものには終わりがある。
そして、終わった処から、また何かが始まるのだ。
・・・というわけで、今年もあと4日。
吉野直子さんのリサイタルを聴きに、青葉台(神奈川)フィリア・ホールへ。拙作「ライラ小景」の初演のほか、イサン・ユンからフォーレまでハープの名品を集めた〈ミューズとの出逢い〉と題するコンサート。
今回の新作は、「銀河鉄道の夜」を描いた…エピローグ〜ダンス〜モノローグ〜ワルツ〜エピローグ…というドラマ仕立ての5つのシーンからなる20分ほどの作品。静かに夢のように揺れるアルペジオの絶妙な美しさと、変拍子のアレグロで疾駆するダンスやワルツのスピード感の心地良さ。決して地上には降りてこない、天上の異空間での音のきらめき。・・・吉野直子さんの精妙きわまりないハープの響きを得て、夢は銀河を駆け巡る。
それにしても、こういう演奏に出会えた時、作曲家という仕事の面白さをしみじみと実感する。何しろ、ハープなど触ったこともないのに極上のハープの世界を作れるのだから!
モーツァルトのちょっとマイナーな器楽曲の楽譜探しに困っていたら「ザルツブルク国際モーツァルテウム財団のHPでモーツァルトの楽譜ならすべて閲覧出来るよ」という情報を得、半信半疑で覗いてみて・・・驚いた。
ホームページ(日本語)から「学術」→「NMA Online」と進むと、個人的な学習に限って…という承諾を求められるもののモーツァルトのすべての作品の楽譜が閲覧できる。
PDFでスコアが手に入る他、作品の詳細な解説(ドイツ語)付きと、まさに至れり尽くせり。こういう時代になった(なってしまった)のですね、モーツァルト先生!
今回は、5月にサントリーホールで開かれた「大地の歌」コンサートの、好評に応えてのアンコール公演。私の作品は「タピオラ幻景」の代わりに、「アイノラ抒情曲集」と「ゴーシュ舞曲集」という世界初演の新作2つ。(とは言っても、このBlogを読んでいる方はご存知のように、実はもうレコーディングも済ませているのだが・・・)
コンサート冒頭に置かれた「アイノラ」は、高音を主体にした静かで抒情的な小品が7つ。もともと「やさしい小品集」として書かれたものではあるのだが、舘野さんは時々右手を添えつつ一音一音を慈しむように弾かれる。フィンランドの優しい風がホールを吹き抜け、ふわっと出て来る「たどたどしいモーツァルト」みたいなフレーズに思わず涙が出そうになった。
そして、スクリャービン、末吉保雄、バッハ、谷川賢作とメイン・プログラムが続き、最後に置かれた「ゴーシュ」は、一転してもろにロック〜ブルース〜タンゴ〜ブギウギという4曲を並べたショー・ピース。低音のビートをずんずん響かせ、いやらしいブルース・コードやグリッサンド奏法やタンゴやブギのリズムが反則ぎりぎりまで繰り出されるのだが、それを舘野さんは、楽しくて仕方がないという感じで弾きまくる。
満場の拍手で盛り上がったところで、アンコールではカッチーニの「アヴェ・マリア」が静かに流れてクール・ダウン。これも左手用に工夫を凝らしてアレンジしたお気に入りの一曲なのだが、抒情派の大ピアニストにあんなことやこんなことまでやらせてしまえる(?)のが作曲家というお仕事の楽しいところ。さて、次は何をやっていただこうか・・・(笑)
伊東乾「さよなら、サイレント・ネイビー」(集英社)を読む。作者:伊東氏は私より一回り下の世代の現代音楽作曲家。まだ東京大学理学部の学生の頃に確かお会いし、いきなりマイケル・ジャクソンの「スリラー」のビデオを見せて呆れられた記憶がある(笑)
この書は、オウムの地下鉄サリン事件実行犯の一人:豊田亨が、彼の東大での同級生であったという視点から、著者自身と彼を隔てたものは何か?と問いかけてゆくノン・フィクション。彼自身、作曲家としてだけでなく指揮者やプロデューサーや東大助教授(情報学)など多面的な顔があり、科学や音楽や思想や歴史など様々な切り口をちりばめた多彩な情報量はさすが。一方、その煩雑さをソフトにさせるためワトソン役の若い女のコとの会話を織り込んだりするあたり、読みやすさにも配慮していて好感が持てる。生々しい事件をどこか夢のような解題にしているせいか毀誉褒貶が相半ばしているようだが、とてもいい仕事をしたと思う。
オウム事件の謎は「科学的知識もあり高い知能もあるエリートのはずの青年たちが、どこから見ても怪しげな宗教思想にはまり込み、自覚のないまま反社会的な犯罪や大量殺人にまで至った奇妙さ」に尽きる。著者の追求もそのあたりの個人的な検分を核にして、原子物理や大脳生理学から戦時中の特攻隊や楠木正成の故事にまで考証の幅を広げている。しかし、そこに解答などあるはずもなく、実行犯である学友に「サイレント・ネイビー(黙って責任をとる海軍兵士)に徹するのはやめて、何もかも語ってくれないか」という思いをぶつけたのが本書のタイトルの由来になっている。
ただ、彼自身は自覚していないのかも知れないが、それを言うなら(この書で個人的エピソードとしてのみ何度か登場する)彼が足を踏み込んだ「現代音楽」というのも全く同じ構造だ。あの時代、音楽にだって「局所最適・全体崩壊」のマインド・コントロールはあった。それが単に犯罪や殺人に及ばなかった(音楽には情けないことにそれほどの破壊力も殺傷力もなかった)だけの話であり、一般人から見て「頭のいい人たちがなんであんなことをしたのか理解に苦しむ」点では相似形(?)なのだから。
ということは、麻原彰晃の代わりにブーレーズやケージやリゲティを信奉した彼自身の中にこそ解答の一片はあるはず。極めて理知的で将来を嘱望されていた青年のうち、一人がオウムに行き、一人が現代音楽に行った。この極めて象徴的な事実を軸にさらに切り込んだら、もっと恐ろしいノン・フィクションが出来上がるに違いない。
現代音楽の最近の新作を、新人・中堅・大家を含めて幾つか聴く機会があった。蓼食う虫も好き好きと言うから決して悪いとは言わないが(実際、私もそうやってマメに聴いているのだし)「まだこんなことをやっているのか…」という深〜い脱力感と失望感とに襲われ、思わず(漫才風に)「まだ現代音楽かよ!」とツッコミを入れたくなってしまった(笑)
私としては、かつて半分冗談・半分本気で「現代音楽撲滅!」などと宣言したものの、60年代に光り輝いた前衛音楽界の先達たちの作品の鮮やかさには敬意を抱いている。でも、その一瞬の「栄光(?)」を延々80年代90年代00年代と引きずり続けている「現代音楽」の(40年まったく進化のない)この退嬰ぶりは一体何の冗談なのだろう?
もしクラシック系の創作音楽で「新しさ」への挑戦をするのなら、メロディでモーツァルトやチャイコフスキーを凌駕すること、リズムでジャズやロックを超越すること、サウンドでポップスや他のジャンルの音楽に拮抗することのはず。それなのに、中途半端な無調と中途半端なカオスでお茶を濁し続け、中途半端な同士で賞や委嘱や推薦をやり取りし合い、聴衆は完全に蚊帳の外。そんな「閉鎖社会」から一歩も出て来ないまま、ずるずるとこのまま21世紀も生きて行くつもりなのか? いや、生きて行けると思っているのか?
・・・おっと、いかんいかん。思わず熱くなってしまいましたな。21世紀に交響曲を書いているような非常識なヤツが、こんなところで常識を説いても説得力などゼロというもの。それに、この程度の義憤をぶつけて「そうだったのか!」と目覚める相手ばかりでしたら、世の中とっくに戦争もテロも犯罪もいじめも交通事故も財政破綻もワーキングプアもノロウィルスもなくなっているはず。隠居のつまらぬ愚痴と笑ってくだされ。げほげほ。あー、渋いサティがうまい。(・・・また、そのボケかよ!)
丸善より「學鐙」冬号(vol.103 no.4)届く。しばし首をかしげた後、そうそう、エッセイを書いたのだっけ…と思い出す。「冬の音律、冬の音楽」と題する珍しく真面目な(笑)冬の音律(盤渉=シ♮)についての歴史的(&個人的)考察。自分で書いておいて、「へー、そうだったのか」と感心する。いかんいかん、すっかり頭が冬になっているな。
筑摩書房からは、拙著「夢みるクラシック交響曲入門」重版決定との連絡。最近、若い子たちがクラシック音楽に興味を持ち出してくれているようで、ちょっと嬉しい。もちろん、すぐに何かが変わるとは思わないけれど、15年先が楽しみ。若者たちよ。素敵な音楽に出会いたまえ。ただし、交響曲の作曲家になるのだけは、やめた方がいいかも知れないけどね(笑)
Blog「月刊クラシック音楽探偵事務所」更新。
今回は、私が昔吹いていたファゴットと木管楽器を巡るお話。
楽器というのは、長いこと演奏しているとだんだんその楽器に性格が似てくる。ちょうど、犬が飼い主に(そして、飼い主が飼い犬に)似てくるように・・・。
というわけで、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン・・・それぞれの楽器の性格と、その楽器を吹くことによって演奏家に憑依する〈楽器人格〉の謎を探る(笑)。
おまけは、アンサンブルの呼び方。
三重奏はトリオ、四重奏はカルテット、五重奏はクインテット・・・
さて、その先はどこまでご存知?
5日・6日・7日と南相馬市民文化会館で、舘野泉さんによる左手のためのピアノ作品集CD録音セッションに立ち会う。
曲目は・・・
アイノラ抒情曲集(全7曲)
ゴーシュ舞曲集(全4曲)
4つの小さな夢の歌(3手連弾)
プレイアデス舞曲集 IV
子守唄(3手連弾)
3つの聖歌
・シューベルト:アヴェ・マリア
・カッチーニ:アヴェ・マリア
・シベリウス:フィンランディア賛歌
もうかれこれ100枚以上CDを発表しているという舘野さんだが、日本での録音セッションは意外にも初めてとか。今回録音場所に選ばれた南相馬市民文化会館(ゆめはっと)は、自ら名誉館長を務める音楽ホール。座席数が1000を超える広々とした空間で、のびのびしたピアノの音が紡がれてゆく。
今回は、左手のためのピアノ曲のほかに、3手連弾(左手1本と、両手2本)というちょっと珍しいDUOも聞き物のひとつ。連弾のお相手はお弟子さんの平原あゆみさん。彼女のソロによる〈プレイアデス舞曲集 IV〉も収録され、「左手1本」「両手2本」「二人で3本」という三種類のピアノの競演!となった。
それにしても舘野さんのピアノは、古稀(七十歳)を迎えられ左手一本…ということが信じられないほど、自由闊達で、繊細にして奔放、かつ「弾くのが楽しくて仕方がない」という喜びに満ちている。そのうえ、ヨシマツ作品ばかりを弾く…という暴挙、もとい、果敢なチャレンジャー精神をも発揮されるのだから頭が下がる。その素晴らしきピアノにミューズの神のさらなる加護と微笑みがあらんことを。
CDの発売は来年4月の予定。今月19日(火)には舘野さんのリサイタル(オペラシティ)で、アイノラ抒情曲集とゴーシュ舞曲集の初披露が行われる。
USEN 440:CLASSICで、私の作品特集をしていただけることになった(らしい)。
USEN(有線放送)は、現在CSデジタル放送の「SOUND PLANET」とブロードバンドによる「USEN 440」で24時間さまざまなジャンルの音楽を供給している。
その音楽放送クラシック・チャンネルBF-40では、毎月いろいろな「作曲家」にスポットを当てて作品を放送していて、今年最後の月は日本の作曲家特集として、前半に没後10周年記念のタケミツ作品、後半に(没前X周年記念?の)ヨシマツ作品ばかりを24時間流すと言う。・・・なんと恐ろしい・・・もとい素晴らしい(笑)
というわけで、★12月18日〜24日は、朱鷺によせる哀歌、交響曲第1,2番、チェロ協奏曲ほか…全13曲。★12月25日〜31日は、交響曲第4、5番、ピアノ協奏曲、プレイアデス舞曲集ほか…全14曲。…という各4時間ほどのプログラムが、師走の日本にエンドレスで流れる…ことになった。
しかし、朱鷺によせる哀歌とかプレイアデス舞曲集ならともかく、真夜中に交響曲第5番なんかが鳴ったら、うるさくてたまらないんじゃなかろうか?