名作*ここが読みたい
読売新聞夕刊(6月9日付)の「週刊KODOMO新聞ライブラリー〈名作ここが読みたい〉」でスペインの詩人ヒメネス(1881〜1958)の「プラテーロとわたし」という一冊を紹介する。
各界の色々な人が、子供たちに読んでもらいたい古今の名作を紹介するコーナーで、「不思議の国のアリス」とか「銀河鉄道の夜」とか、普通に思いつきそうな名作は当然ながらもう既に網羅されている。そこで、ちょっと頭をひねった揚げ句、取り上げることにしたのが、この30年来の秘密の愛読書。
舞台は南欧スペイン(アンダルシア地方)のモゲールという村。その太陽と青い空と木々の緑にあふれた美しい田園における四季の出来事や風景を138編からなる詩で綴った名作……なのだが、ここには美女もご馳走も酒もロマンスも登場しない。
心に傷を負って田園をさまよう孤独な「わたし」が見つめるのは、相棒のロバ(プラテーロ)であり花や木々や水や風であり、それ以外はと言うと村の片隅にいる「乞食」や「びっこ」や「つんぼ」や「おし」や「きちがい娘」や「白痴のこども」や「皮膚病の犬」や「老いた馬」や「大道芸人」など、社会のどん底にいる弱者たちばかり。
しかし、彼らのその短く哀れな生と死が、詩人の優しい眼差しにかかると、まるでキリストに祝福された聖なる宝石のように悲しいまでの光を放つ。
私が最初にこの作と出逢ったのは30年ほど前。1975年の岩波少年文庫版「プラテーロとぼく」(長南実:訳)によってである。
ただ、今回新聞で紹介するに当たっては「現在でも手に入る版」という条件があり、最新の2001年岩波文庫版「プラテーロとわたし」を引用せざるを得なかったのだが、実は全編を読み返してみてちょっと愕然とした。「ご想像通り」、同じ訳者ながら(現在の情勢に則して)上記のような言葉が微妙に言い換えられているのである。
それは確かに「微妙な」違いではあるのだけれど、それによって失われた哀感や詩情は・・・ちょっと取り返しがつかないもののような気がしてならない。詩人がこれを知ったら、その「殺された」言葉たちのために、プラテーロと一緒に泣いたことだろう。
例えば冒頭の献辞の訳(共に長南実氏)を忠実に2つ並べてみる。この微妙な違いから生まれる「喪失感」を感じていただけるだろうか?
桑の実とカーネーションを
いつもぼくにとどけてくれた
〈太陽(ソル)〉通りの
あのかわいそうな気ちがいむすめ
アゲディーリャの
思い出に・・・(旧訳:岩波少年文庫)
桑の実とカーネーションを
いつもわたしにとどけてくれた
太陽(ソル)通りのあの可哀そうな狂女
アゲディーリャの思い出に・・・(新訳:岩波文庫)
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この手の言葉狩りはいつまで続くんでしょう?「差別用語」を使うことと、差別することは、全く別物であるはずなのに。「差別用語」を使いさえしなければ差別が無くなる、とでも考えているかのように。
投稿: かずくん | 2007年6月14日 (木) 10:42
1975年度版を、頑張って入手しました。
今、別のとても面白い本を読んでいて、それを読み終わったら、こちらを読もう、と思っていたのに、なんとなく手にとって、開いてしまったら・・・そのまま離れがたく、ひきつけられてしまい、こちらのプラテーロばかり、読んでしまっています。ずーっと、病み付きになってしまいそうな本です。私にとって、もう全部読んだにも関わらず、何回も何回も、読んでみたくなるのは、何故か、ロジェ・ヴァディムの、バルドー・ドヌーヴ・フォンダ、と言う本と、と、バルドー自伝、その他なのですが、それにもう一つ、このプラテーロが加わりそうです。こんな本を教えていただいて、ありがとうございます。
投稿: vadim | 2007年6月19日 (火) 17:05