赤坂のサントリー(小)ホールで行なわれた故松村禎三氏のお別れ会に行く。晩年の弦楽四重奏曲などが演奏され、祭壇の上で花に囲まれている松村さんの笑顔を見ていると、やはり昔のことを色々と思い出してしまう。
松村さんのところに出入りしていたのは、もう30年以上も前のことだ。〈交響曲〉〈弦楽四重奏とピアノのための音楽〉〈ギリシャに寄せる2つの子守唄〉〈管弦楽のための前奏曲〉という作品に魅せられ、19歳の時、無理やりお宅に押し掛けたのが最初である。
もちろんその圧倒的な音楽の魅力が最大の理由だったのだが、それよりなにより武満さんと並んで「独学の士」として在野の人だったのが、「作曲家はすべからく独学であるべし」「芸術家は野にあるべし」という私のこだわりと一致したことが大きい。
ところが、すぐ「今度から芸大で教えることになったんだよ」と言われ、一方的な失望感からだんだん疎遠になってしまった。
それでもデビューした最初の頃は自分の略歴に(ほかに何も書くことがなかったこともあって)「魚座。B型。松村禎三氏に師事」と書いていた。しかし、やがて芸大の教授になられたと聞いた頃から、こんな独学の食わせ者に「師事」と書かれては迷惑だろうと思い、省略して「独学で作曲を学ぶ」と書くようになった。
そのこと(つまり、経歴から師匠の名を削ったこと)について、10年ほど前だろうか、草津の音楽祭で会った時に笑ってからまれたことがある。「この人はね、師匠のボクを破門したんだヨ。弟子が師匠を破門するなんて聞いたことないよね」というわけである。それから略歴には「〈一時、松村禎三に師事したほかは〉独学で作曲を学ぶ」…と付記するようになったのだが。
野にあった頃の松村さんは、それこそ生きているすべての時間を作曲に賭けていたような壮絶さがあった。そして、異様なまでの集中力と執念とで「ヨーロッパ的でないアジア的な音楽」かつ「砂漠の真ん中に巨大な男根が屹立しているような音楽」(これは本人の談)を指向していた。
びっしりと膨大な音が蠢いているスコアを書くその執念の根源について、「実はこれは若い頃に結核病棟で死を思いながら覗き込んでいた便所の底のウジ虫の群れ(地獄のイメージ)なんだ」とおっしゃるのを聞き、私のような若い世代には到底太刀打ちできない心の底のデーモンを知って絶句した事がある。
そのあたりは、60年代後半になって前衛音楽が挑戦的な生命力を失う中、繊細なセンスとバランス感覚(適度なジャポニズムと適度なモダニズム)で広く国際的に知られて行った武満さんとはまったく対照的な姿勢だった。なにしろ現代音楽の潮流などには見向きもせず、アカデミズムとも無縁。そのうえ「何日も徹夜で一音を考え続ける」「一曲書くのに何年何十年かかってもかまわない」と言うのだ。その強靱な作曲姿勢には、(良き友人である)武満さんすら畏怖していたと聞く。
そういった孤高の芸術家気質から生み出された音楽は、〈管弦楽のための前奏曲〉〈ピアノ協奏曲第1番〉〈ピアノ協奏曲第2番〉といった諸作でピークに達し、社会的に(尾高賞やサントリー音楽賞などの数々の受賞歴が物語るように)認められ経済的にも報われるようになった。そのことは不肖の弟子として喜びに堪えない。
しかし、その代償?としてその後芸大の教職に就かれ、社会人としての雑事に忙殺されるようになってからの作曲活動(80年代の「チェロ協奏曲」あたり以降)については、正直言って聴くのに辛いものがあったのも事実だ。
その時代、丸13年をかけて完成したという唯一のオペラ(遠藤周作原作による「沈黙」)も、最初の構想では確か水上勉の「飢餓海峡」のはずだった。私がお宅に出入りしていた頃、青函連絡船の遭難のシーンとか、殺人のシーンとか、主人公が見る地獄のシーンとかの舞台の構想を何度か聞いたことがある。日本的な「業(ごう)」にまみれた戦後のあの時代を象徴する社会派ドラマ(同時に犯罪ドラマでもある)は、松村さんの音楽に良く合うと思った。
しかし、出来上がったのは、キリシタン禁制の時代の日本を舞台にした「神の不在」を問うオペラだったので、ちょっと驚いた。若い頃はひたすら「非ヨーロッパ的」で「アジア的」なるものを標榜してきた松村さんにとって、晩年における「キリスト教的なもの」への接近は、私にとってかなり「意外な」ものであり、この作品はいまだに理解の範疇にない。
松村さん、ぼくはやっぱり「飢餓海峡」の方をオペラで聴きたかった。
そんなことを考えながらお別れ会の祭壇に掲げられた遺影を見上げていたら、「そう言うキミも随分年をとったね。あとは駄作を書きながら無駄に生き延びるといいよ。ふふ…」と、そう笑って睨まれたような気がした。