台風一過(まだまだ夏休み中)
昨晩、大荒れに荒れた台風で、全町停電。インターネットが繋がらない…どころでなく、電灯もつかないので、本も読めない真っ暗闇。こうなると人間の文明はもろい。暗くなったら「何も出来ない」。でも、なんだか(不謹慎にも)わくわくする。
一夜明けて、風がおさまったので外に出ると、あちこちで樹が折れて断線しているし、道はそこら中で通行止め。普段はちょろちょろ流れている小さな川も、ごうごうと流れる濁流と化している。
この地で、こんな景色を見るのは初めてだが、地元の人に聞いても「こんなことは20年ぶり」とのこと。恐るべし、自然の力!
でも、見上げると台風一過の空は美しい。「人間のことなんか知っちゃいない」という超然とした「神の思考」がそこにはある。どんな災厄どんな悲劇の上にも、いつだって青空は美しく広がり、優しく見下ろしてくれる。でも、「何もしてはくれない」。世界はそうしたものだ。
というわけで、三十分ほどぼーっと(神の思考に)見とれていたのだが、結局、音楽の「お」の字も浮かんでこなかった・・・。世界はそうしたものだ。
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先日、BSで、画家のフェルメールにまつわる映画で、ヒヤシンスブルーの少女、と言うのを見ました。
フェルメールはオランダの画家なので、彼の1枚の絵をめぐって、その変遷を逆に昔へたどっていくので、天候によってすぐに堤防が決壊して、大水になってしまう、昔のオランダの大変な暮らしが描かれていました。(ほんとに海より低い土地で、堤防で海の水を防いでいる、という恐ろしい状況で、しかも昔の堤防は、木で出来た、板みたいな堤防でした!)
わらぶき屋根みたいなうちに済んでるのに、
大水になって、1階はすべて水につかり、2階の部屋に、小船で行き来する、という暮らしです。
それでも、妻は(フェルメールの妻じゃありません。絵を所有した、農夫の妻)美しい夕焼けが、大水の景色に沈んでいくのをみて、ほら、と嬉しそうにご主人に笑いかけるのですが、夫は水に浸かって腐っていく作物のことを考えると、一瞬もそんなものに感動できないのでした・・・
生きていくのに必死な夫と、ちょっとのんきな妻とで、バランス取れてるのかもしれません、と思いました。
投稿: vadim | 2007年9月15日 (土) 11:32