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アッという間に年の暮れやな。巷じゃ今年は「偽」の年いうそうやないか。確かに、消えた年金やら食品偽装やら汚職やら、あちゃこちゃ「偽」の大流行やったから、しゃあないワな。けど、よう考えてみたら、み〜んな昨日今日の話やなくて、昔からやってたことが今年になって次々と「バレた」だけやんか。情けな。
ただ、オレが若い頃は、まだ食えるもンを捨てるなんてバチ当たりはおらんかったわな。数字に振り回されて食べもの粗末にするなんて、あべこべや。年金かてそうや。普通に会社入って、働いて、結婚して、子供生んどれば、「老後を心配する」なンてこたぁ思い付きもせんかった。それに、お役所が賄賂やらたらい回しやら記録のボケかますのも、そういうもんやと思っとった。
それが、ここまで「許せん!」と盛り上がるのんは、確かに自業自得だとは思うンやけど、なんか剣呑やナ。なんや自由と平等のツケが回ってきて、お互い余裕がのうなってきた…いうか、希望がのうなったというか。むかしは「平等」言うたら、みんなして高い方に引き上げることやったけど、今では低い方に足を引っ張り合うことみたいやしナ。「自由」かて、むかしは誰でも金持ちになったり成功できる自由やったけど、今では誰でも落ちぶれて生活苦になる自由ばっかりや。責任者出てこい!
そやけど「偽」言うたら、オレの関西弁かて充分怪しいから人のこと言えんわな。そもそも「オヤジの独り言」てオレが勝手しゃべっとるように書いとるけど、ホンマはあんたが好き勝手書いてるだけやし。おっと、それは言わん約束やったか。ま、ええわ。嘘も方便やし、「偽」という字は「人の為」と書くしナ。あはははは。
23日、ジャズ界屈指の大ピアニスト、オスカー・ピーターソン(82歳)が亡くなった。
カナダ出身の名ピアニスト…と言ったら、クラシック音楽愛好家ならグレン・グールド(1932〜1982)を真っ先に挙げるだろうが、私はピーターソンだなあ。70年代にディジイ・ガレスピー(tp)やジョー・パス(G)あるいはエラ・フィッツジェラルド(Vo)らと白熱のインタープレイを聴かせたアルバム(LP)を聴き、その圧倒的なドライヴ感とスピード感に魅せられ、そこから60年代の名アルバム(「プリーズ・リクエスト」や「ナイト・トレイン」など)を聴き始めた。
来日公演も何度か聞きに行ったし、コンピュータに楽曲の打ち込みを始めた(まだ2トラックのピアノ譜の入力がやっとだった)ころ、最初にデータ入力した曲が、彼の弾く「Geogia on my mind」と「Night train」だった。そのデータ(25年ほど前の最初期のMIDIデータ)は、いまだに私のMacに残っている。
おかげで、私が書くアレグロ(あるいはプレスト)のジャズっぽいフレーズには、かなり彼の影響が刻印されている(ちなみに、スローな部分はビル・エヴァンスとキース・ジャレットだ)。「デジタルバード組曲」に始まるモード&プレスト路線は、彼のピアニズムの強烈なインパクトが発想の起源だし、「天馬効果」のフィナーレのジャズっぽさは完全にジョー・パスとの(サル・プレイエルでの)デュオ・ライヴ盤の影響だ。
それにしても、若い頃に出会った音楽と言うのはまさしく一生の宝だ、と改めて感じる。私の場合は70年代(つまり十代後半から二十代にかけて)に聴いた音楽になるのだが、それらは、こうして歳を取っても自分の身体の奥の奥まで深く染み込んでいて、今聴いても心を震わせてくれる。
今生まれている音楽も、
そうやって若い人たちの心の奥深くまで残るのだろうか?
若者よ。いい音楽に出会いたまえ。
オジサンは心からそう願うよ。
インターネット内の作者匿名・転用自由の動画サイト上で誕生した名曲のひとつに「みくみくにしてあげる」という作品がある。元は(このBlogでも何度か登場した)初音ミクというVocaloidソフトで作成された投稿作品(作者はika氏というらしい)。これを元に二次加工三次加工の作品が生まれ(その派生作のひとつが「たぴ・ぱん」シリーズ)、ネットの海の中で生まれたヒット曲として知る人ぞ知る名作である。
それをサイトの運営会社がJASRACに楽曲登録してしまったことが、ちょっとした物議をかもしている。ネット内では累計200万超試聴というかなりのヒット曲なので、着メロなどに配信利用しようとして、それに必要な手続きを踏んだ…ということなのだろうが、今まで自由に遊んでいた子供の世界に、いきなり大人が乱入してきて、遊んでいるオモチャに権利だとか許諾だとか使用料だとか現実的な正札を付けてしまったようなもので、遊んでいた側としてはなんだか「釈然としない」のも無理からぬこと(なにしろかれこれ25年ほど作曲家をやっている私でも、いまだに現行の著作権法については不可解に思うことが山とあるくらいなのだから)。
この問題、いろいろな視点があると思うけれど、一応作曲家をやっている身からひとこと。作曲する(音楽を作る)人間というのは、そもそもは単純に「いい曲を書きたい」と思い、いい曲ができたら「聴いて欲しい」と思うだけで、報酬や対価(つまり、お金)を目的としているわけではない。それを専業とすることで安定収入を得るのが「プロの作曲家」ではあるけれど、理想を言えば、やはり報酬は「聴く人(あるいは神様)の喜ぶ顔」しかないのだ。
ところが、そんな青臭い理想は「市場経済」の魔手によって赤子の手をひねるように潰され、現実社会では「著作権」という名の両刃の剣が、音楽に絡みつくようになった。そのことについてはプラス面マイナス面両方があるが、もはや逆行できず是非も問えない世界的汎用システムになっていることは認めざるを得ない。
そんな中で、前世紀末に生まれたネットという新世界では、プロもアマチュアも関係なく、自分で作った楽曲や動画や情報を自由に投稿し、面白ければそれを寄ってたかって加工する(楽曲だけだったものが、アレンジを施され、キャラクターが生まれ、動画やアニメーションが付いたりする!)という「理想郷」(というより子供の遊び場みたいなものか…)が育ちつつあり、私のように擦れた作曲家の目には、実に「面白い」と同時に「うらやましい」と映っていたのだが・・・
インターネットというのは、そもそもは「ネットの世界に蓄積される情報は誰でも無償で入手できる」、「そのかわり自分の知る限りの情報は無償で提供する」、そういう全世界的な情報共有空間として構想されたものであり(私も、そんな黎明期からの付き合いだ)、敢えて言うなら「人類全体を繋ぐ神経系」のようなもの。
まあ、「商業主義が入り込まない理想郷」になれとは言わないけれど、ネットの世界だけは自由に、ひたすら自由に、発想や意見や才能が浮遊する場であって欲しい。そう願わずにはいられない。
◇追記。作曲家と著作権についてのもうちょっと詳しい私考はこちら。
今年最後の力仕事ようやく仕上がる。40段ほどのフルスコア(とは言っても、アレンジ・スコア)が32ページ。やれやれ、くたびれた。
というわけで、今スコアの上では毎度おなじみ音符の妖精が、完成を喜ぶ踊り(なのか何なのか)を舞っているところ。
あとは、細かい部分をチェックして、写譜屋さん宛にメール添付でデータを送れば一件落着。
・・・しかし、2ヶ月ほどジタバタした揚げ句に書き上げたわりには、仕事が終わった実感…というか肉体的疲労を越えた快感…というのがほとんどないのが、作曲家という商売のつまらない(健全でない)ところ。
演奏家は一仕事終えれば拍手が待っているけれど、作曲家にはそれがない(…と言ったのは武満さんらしい)。どんな大作でも力作でも、書き上げて「こんなもんかな」と楽譜を置いて「ふう」とため息をつく。それでおしまいだ。
運良く何ヶ月か何年か先にその曲が演奏され、演奏家や指揮者と一緒に拍手を受ける幸運に巡り合っても、心は既にその曲にはない。その頃には次の曲を書いていて、頭の中はその曲でいっぱいだからだ。
こうして作曲家はひねくれて(壊れて)ゆく・・・。
スコアの上に音符の妖精なんていうのが見えるのが、その証拠だね・・・(@ @)
スコア仕上げの最後の追い込みでぐちゃぐちゃの中、夜、二十絃の吉村七重さんのコンサート〈吉村七重の音風景〉を聴きに、狛江(エプタザール)まで出向く。
和楽器と洋楽器をミックスした編成の曲の特集…ということで、私の作品が2つ、10年ほど前に二十絃とヴァイオリンとクラリネットとチェロ…という奇妙な編成で書いた曲「夢あわせ夢たがえ」と、今回のコンサートのためにクラリネットとチェロと二十絃と十七絃という編成に編曲した旧作「白い風景」が演奏され、合間に曲についてちょっとお話をする。
ただ、今ちょうど七転八倒しているのが、オーケストラに神楽と雅楽と太鼓と民謡を混ぜ込んだ〈超〉和洋スクランブルのアレンジ・スコア。おかげで、箏がヴァイオリンやクラリネットと共演するくらいではちっとも驚かなくなっている自分が怖い(^ ^;)。
カメラータ・コンテンポラリー・アーカイヴス〈吉松隆作品集〉のサンプル盤が届く。
作品集とは言っても新録音ではなく、Camerata Tokyoの既発売のCDから、私の作品だけ抜き出して編集したもの。
同じく、湯浅譲二・林光・三善晃・一柳慧・石井真木・池辺晋一郎・福士則夫・新実徳英・西村朗・諸氏の作品集も併せて全10タイトル(各¥1,050)同時発売。
>収録曲は・・・
・ファゴット協奏曲「一角獣回路」(1988)
fg:馬込勇、円光寺雅彦指揮仙台フィル(吉松隆「一角獣回路」&西村朗「タパス」より)
・プレイアデス舞曲集 I (1986)より
p:松谷翠(松谷翠「ピアノ淡彩画帖」より)
・プレイアデス舞曲集 IIa(1987)
vn:沼田園子、p:蓼沼明美(ファイン・デュオ「妖精の距離」より)
・双魚譜(1986)
尺八:三橋貴風、二十絃:吉村七重(吉村七重「タクシーム」より)
図らずも、1980年代(三十代前半の86年から88年までの3年間)に書かれた作品ばかりが並び、まるで「追悼盤」…(+ +;)…もとい、「初期作品集」という感じ。
当初はプレイアデス舞曲集の第1集に含まれていたものの今では破棄してしまった「二重人格者のオード」などという懐かしい珍品も聴ける。12月15日発売。
来年2月に演奏する奇妙な大編成の曲(児童合唱・混声合唱・オーケストラ+ハワイアン・バンド・雅楽・神楽の舞・太鼓)のコーラス・パートのガイド録音……なのだが、別にスタジオに合唱団がぞろぞろと集まったわけではなく、男声ひとり女声ひとりの専門の歌手の方が、コーラスの全6パートを(ピアノ伴奏で)歌って、それを次々と録音してゆく。
これをCDにして合唱団に配れば(トラック1はソプラノのパート、トラック3はテナーのパート…というふうに)、それぞれ自分のパートを聴いて練習することが出来る…というなかなか親切な代物である。
今日スタジオ録音したものは、すぐCDに編集され、今週末には合唱団に渡されるとのこと。こちらは、その間にフル・スコアの作成。今年最後の力仕事である。
Blog「月刊クラシック音楽探偵事務所」更新。
今回は「未完のオペラ補完計画」と題して、作曲者の死で未完に終わったオペラを復元(補完)させた4例についてのお話。
登場するのは、ムソルグスキー「ホヴァンシチナ」、ボロディン「イーゴリ公」、プッチーニ「トゥーランドット」、ベルク「ルル」。
ちなみに標題は、某アニメで登場した「人類補完計画」という怪しい代物の影響を受けている…ような気がする(^ ^;)
*
さて、本日はこれから初台のオペラシティで、左手のためのピアノ協奏曲(ケフェウス・ノート)の東京初演。
このところ仕事で缶詰め状態(まだ継続中)なので、昼間明るいうちに外に出るのはたぶん今月にはいって初めて。気分はほとんど吸血鬼である(日の光に当たると灰になってしまうかも)・・・
夜、NHK-FM「ベスト・オブ・クラシック」のN響コンサート生放送に解説でゲスト出演。(司会:山田美也子さん)
前半の曲目は、ベートーヴェン「コリオラン序曲」と「ピアノ協奏曲第4番」(p:サイモン・クロフォード・フィリップス)。演奏はアラン・ギルバート指揮NHK交響楽団。
そして後半は、ちょっと珍しいボフスラフ・マルティヌーの「交響曲第4番」。近現代チェコの作曲家で、この第4番は第二次世界大戦中(1945)、亡命先のアメリカで書かれたもの。
指揮のギルバート氏の好演もあって、なかなかゴージャスなサウンドと分かりやすい構成の「隠れた名曲」…と思ったのだが、余った時間に(全く同じ時期に書かれた)バルトークの「管弦楽のための協奏曲」を聴いて愕然。これはもうまったく「(才能の)格が違う」のである。
音楽とは何と恐ろしい(そして酷い)ものなのだろう…と改めて思い知る。(「そういうあんたはどうなんだ?」という問いはここではパス・・・(~ ~;)
で、番組終了後、今年初の「よいお年を…」。
外にでると渋谷の街はもうクリスマス・・・。
日本の現代音楽史上屈指の名盤のひとつ、三善晃「レクイエム」(1977年のライヴ録音)がようやくCD化された。(財団法人:日本伝統文化振興財団:VZCC-1007)
30年前(私がまだ作曲家としてデビューする前!である)、東京文化会館で行われたこのコンサートは、聴きに行った。衝撃で鳥肌が立ったのを覚えている。「レクイエム」というと、普通はラテン語の典礼文よるキリスト教的な宗教作品だが、これは全く違う。日本語の反戦詩(というよりあの戦争に関する断片的な言葉)をちりばめた合唱とオーケストラのための全3章からなる25分ほどの音楽で、死者の安息を願うどころか「死者が生者を激しく告発するような」恐ろしくも壮絶な鎮魂(たましずめ)のドラマである。
そして、何よりその言葉の選び方が凄い・・・
誰がドブネズミのように隠れたいか!
甚太郎おじさん、殺さんごとしなさい
それはそんなに古い話ではない。
おとなしいゾウはどうして殺されたか?
顔をそむけなさるな、母よ。
あなたの息子が人殺しにされたことから
あきらめてください。泣かないでください。
トキちゃん、ケイちゃん、さよなら。
お父さん。お父さんのひげは痛かったです。
ああ、あなたでしたね。
あなたも死んだのでしたね。
人が死ぬ。その世界の火の中に私一人いる。
そして、私も死ぬ。世界には誰もいない。
ただ火事が機械のようにもうもうと燃えていた。
反戦的な鎮魂曲という点では、ブリテンの「戦争レクイエム」の日本版とでも言えるのかも知れないが、これはそれを遥かに越えた苛烈さで(決して解決する事のない)死者の情念が渦巻き怨念が爆発する。
そのため、全編不協和音で合唱は絶叫しオーケストラは咆哮するという「聴くにはつらい音楽」だが、この現代音楽的語法なしには戦争の不条理とそこから生まれた巨大な怨念を伝えるのは不可能に違いない。
戦後の「現代音楽」が何を生み出したか?という問いの、これは(貴重なそして希少な、しかし最高の)解答のひとつと言えるだろう。
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