遅い夏休み in 軽井沢
昨年の今頃は台風で全町停電になったりして大変だったが、今年は清々しい天気。逗留先のホテルでは今回小さなバルコニー付きの部屋にあたったので、椅子に座って日がな一日、木陰を吹き抜ける風を愛で(鳥のさえずりを聴き)ながら本を読む。
実は、来年の太宰治生誕100年がらみの仕事(まだ引き受けると決めたわけではないのだが)の話があって、太宰本をごっそり持っての軽井沢入り。「ヴィヨンの妻」「人間失格」「斜陽」「走れメロス」「晩年」「グッドバイ」などを何十年ぶりかで読み直しているところ。トカトントン。
ただし、正直言って昔から太宰は(好きか嫌いかで言うと)嫌いである。人間の弱みばかりをえぐるのと、女たらしなのと、偽善を嫌うあまりの偽悪ぶりと、何かというとすぐ「死ぬ」と言う「人でなし(人間失格)」ぶり(実際に愛人と情死しているし)がどうにも肌に合わない。宮澤賢治とは(資質は似ていても)全く反対方向を向いている。それが賢治派の私としてはどうにも許せなかったわけだ。
それが、ある時、吾妻ひでおのマンガに太宰治の影を見い出してから、ちょっと見方が変わった。非常識で飲んだくれで人間を失格している男の横に常に可愛いんだか壊れてるんだか分からない女性がいる世界が、どこか似ているのだ。「ヴィヨンの妻」などは「不条理日記」のタッチが実に似合いそうだし(などと言うと、太宰ファンは卒倒するかも知れないけれど)。
この太宰の世界に音楽を…と言われると難しいが、敢えて挙げればチャイコフスキーか。「エフゲニー・オネギン」や「スペードの女王」あたり。女々しいくせに大言壮語で、虚無的なくせにセンチメンタルな処がぴったりだ。
…などと思えるということは、意外と好きになってきているのかも。
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太宰の作品にクラシック音楽関連の人名はほとんど登場しませんが、『ダス・ゲマイネ』には登場人物の一人が来日中のヨーゼフ・シゲティとカフェで意気投合する話が出てきますね。往復書簡形式の『風の便り』には、太宰自身をモデルにした作家が井伏鱒二をモデルにした先輩作家に「告白すると、私は、ショパンの憂鬱な蒼白い顔に芸術の正体を感じていました」「大工のせがれがショパンにあこがれ」と自嘲するくだりがあります(太宰当人は大工の息子ではありませんが)。また『大映ファン』1948年5月号に発表された関千恵子の「太宰先生訪問記」によると、太宰は「大体、日本人には、軽さ、いわゆるほんとうの意味の軽薄さがないね。誠実、真面目、そんなものにだまされ易いんだ。(略)何かと云うと、ベートウヴェン。いけないな。モツァルトの軽み。アレは絶対だ」と発言していたようです。「モツァルトの軽み」に最も近づいたのは戦時中の『お伽草紙』『新釈諸国噺』あたりかもしれません。個人的には『フォスフォレッセンス』『竹青』のような小品に不思議な魅力を感じます。
投稿: 馬場数馬 | 2008年9月12日 (金) 04:07