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YOUNG KING「アワーズ」誌にこの7月から連載が始まったコミックスで、主人公は音楽大学でヴァイオリンを学ぶ青年、ヒロイン(ひびき)は指揮科に通う天才少女という(某「のXめ」とは逆パターンの)意欲作。
クラシック音楽界が舞台ということで「指揮者やクラシック音楽についてわかりやすく解説を」…と頼まれてただ今コラム(ひびきコラム)を連載中。この第1巻にも4回分が掲載されている。
冒頭、小学生のヒロインが、指揮者の父親の代理でリハーサルにふらりと現れ、いきなり〈ベートーヴェンの交響曲第4番〉を指揮してしまう…という展開からして、なかなか引き込まれるのだが、巻頭には、拙作〈交響曲第2番(地球にて)〉の曲目解説で私が書いた一文が・・・
人間も音楽のように
大気から発生し、
音楽のように大気に
消えてゆく存在だったら
どんなによかっただろう
・・・ここだけ読むと物凄く意味深な文章なのだが、これが、どう物語の行方を暗示するのか。今後の展開に期待。
発売は12月28日。
この業界、年越しの仕事は大体「〆切は年明け早々」なので、年末年始を穏やかに過ごせることはまずない。もしかしたら一年でもっとも悲惨なシーズンかも知れない。
でも、そうぼやいても「このご時世、忙しがるほど仕事があるだけでラッキーですよ」と同情すらしてもらえない。
どうしてこんなこと「やる」って言ってしまったんだろうなぁ…と後悔しきりのピアノ・コンチェルト版「アメリカ remix」は、ようやくスコア145ページが最終段階。あとは細部のチェックをして、年明け早々にはデータを送付できそう。
問題は(さらに爆裂後悔にまみれた)オーケストラ版「タルカス」の方だが・・・これは完全に年を越しそう。タイムマシンがあったら、これを「やる」と思いついた時点に戻って、自分の首を絞めてやめさせたい(笑)。アドリブ部分の採譜がまだ2カ所ほど終わっていないし。
ついでに、夜はネコがふとんに乗ってきて、重くて足を伸ばして眠れないし……ううう。
NHK405スタジオで「FMシンフォニーコンサート」新年1月分1本の収録。
今回は来年の1月10日(日)放送分で、オペラの序曲&前奏曲(セビリアの理髪師、椿姫)とアリア集(プッチーニ「ジャンニ・スキッキ」、ドニゼッティ「ルチア」ほか。ソプラノ:松田奈緒実)、およびドヴォルザークの交響曲第8番。演奏は岩村力指揮東京フィル。
収録のため物凄く久しぶりに外に出た(とは言っても、仕事場からNHKまで歩いただけ)のだが、街もNHKの中も閑散としているのにちょっとビックリ。不況もここまで来たか!・・と思ったら、休日(天皇誕生日)だったのでした。
そう言えば、今月はまだ2〜3回しか外に出ていないような気が・・・
*
今月届いた新譜で、地味〜に期待して待っていたグラズノフの交響曲全集(セレブリエール指揮ロイヤル・スコッティッシュ・ナショナル管弦楽団)がようやく完結。
第4番・第7番・・・第5番・・・第6番・・・第8番ときて、最後は、第1番・第2番・第3番・第9番(未完)の2枚組。
ショスタコーヴィチの師匠にして、16歳で最初の交響曲を発表し天才の名を欲しいままにしたグラズノフだが、作風自体は(急進的とは程遠い)緩〜いロマンティシズムが特色。しかし、ブラームスにロシア風味を加えたような節度ある茫洋さと、淡い人生肯定的な明るさがなかなか良い味なのだ。
すべてのクラシック・ファンにお勧め……とは言い難いが、こうして1から9まで揃うと(四つ葉のクローバーでも見つけたみたいな)ちょっと幸福な気分になる。
地味〜に拍手。
映画「ヴィヨンの妻」、第33回日本アカデミー賞の優秀…作品賞、監督賞(根岸吉太郎)、脚本賞(田中陽造)、主演男優賞(浅野忠信)、主演女優賞(松たか子)、助演女優賞(室井滋)、音楽賞(吉松隆)、撮影賞(柴主高秀)、照明賞(長田達也)、美術賞(種田陽平/矢内京子)、録音賞(柿澤潔)、編集賞(川島章正)…だそうです。
認証に不具合のあったFinale 2010は、その後ユーザーサポートから回答があり、「(会社側の)重複登録した分の解除」をしたので「(そちら側の)アクセス権の修復」をして再度認証を、とのこと。
どうやら認証回数の制限(2回までしか認証できない)を解除したのか、認証は出来るようになった。しかし、なぜか今度は、1回目「認証できず」、2回目「認証するも表示されず」、3回目「正常に認証」・・・と再起動のたびに3回認証作業が必要になってしまった。(ちなみにMacOSは最新の10.6.2)
要するに、一応「使えなくはない状態」にはなったのだが、このソフト(前にも書いたが)一旦2010でデータを作成してしまうと、2009以前の版では金輪際開けなくなってしまう。
ということは、万一2010でスコアを作成している途中で「認証不可」とか「印刷&保存不可」などということになったら万事休すなのである。
というわけで、安全が保証されるまで(おそらく半年位したらアップデータが発表されることだろう。やれやれ)「Finale 2010」は封印。2009で作業続行という結論に。
なんだか「防犯」のために部屋のドアに最新式の電子キーを付けてもらったら、その不具合で部屋そのものが使えなくなってしまった・・・という感じか。
でも、付き合いの長いソフトなので、見捨てませんけどね。
講談社より拙著「クラシック音楽はミステリーである」の刷り上がりが届く。
月刊「クラシック音楽探偵事務所」から生まれた初の著書で、厳選(?)された5つの事件簿からなる衝撃の音楽ミステリー。
1.バッハと五線譜の中の暗号
2.ショスタコーヴィチ、二重人格のファウスト
3.モーツァルト「ドン・ジョバンニ殺人事件」
4.作曲家たちの犯罪捜査風プロファイリング
5.プッチーニ「トゥーランドット」の謎
もちろん中身は校正で何度も読み返しているのだが、ぱらぱらとページをめくり始めたら・・・止まらなくなってしまった。もしかしたら、意外と面白い…のかも知れない (^ ^;
店頭に並ぶのは、来週月曜日(21日)。講談社:+α新書。定価:880円(税込)。
*
もう一点、本日届いた今月の新譜の中に拙作「デジタルバード組曲」を録音した一枚を発見。
(何度か書いているが、コンサートで演奏する時もCDにする時も別に作曲家にお知らせがあるわけではないので、偶然見つけて喜ぶのが作曲家の老後の楽しみなのである)
平山恵「Appreciation」:ライヴノーツ(ナミ・レコード)WWCC-7632。
タファネル、ベルトミュー、ビュセール、ゴーベール…と、いずれもフルート曲マニアしか知らない作曲家たちの軽やかで優美な曲と並んでのトリの演奏(…だって、鳥の曲だもの)。
センセ、センセ。きのうチェーンメールがごっそり来ましたよ。日本のオーケストラ存続のために事業仕分けの助成金カットに抗議メール出してくださいって。国からのお金をカットされたら日本のオーケストラ殆ど潰れて2つくらいになってしまって音楽芸術はおしまいなンですって。でも、そう言われて初めて知ったんですけど、オーケストラってカットされたら潰れてしまうほど国から助成金もらってるんですねー。いいなあ。あたしもピアノで芸術やってるんだけど助成金なんてもらったことない。センセだって作曲やってたって助成金なんて一円も出ないンでしょ?
うーん、同じ音楽芸術でもピンキリだからね。例えばピアニストだったら1000人のホールを満席にする実力さえあれば入場料総取りできるけど、オーケストラはそれを100人で分けるわけだから、一人頭の聴衆は10人。もともとどんなに努力精進しても採算取れるシステムでないのは確かなんだよね。ただ、かつて都市が近代を迎える時にセレモニーやコンサートやオペラのような娯楽すべてに使える総合音楽メディアとして生まれたのがオーケストラだからね。そのあたりは警察とか郵便とかと同じ。オーケストラが街にあるってことは、その街が経済的に豊かで、上流階級は文化水準が高く一般市民も生活水運が高い、そしてなにより治安がいいことの証明だったわけ。だからこそ採算は取れなくても、いや、取れないからこそ税金を投入してもそれを持ち続けることに意味があった。それに疑問符が付いたってことは、この国自体が「一流国を目指す必要はない」ということで二流三流国へ向かって舵を切り始めたってことかな。
にいちゃん、にいちゃん。聞いてるとゲイジツ家の皆さんも大変なんだねー。俺んトコの会社もご多分に漏れず火の車なんだけど、最近の日本はホントおかしいネ。飢饉なわけでも病気が蔓延しているわけでも天変地異があったわけでも戦争が始まったわけでもなく、俺たち庶民の労働力だって生産力だって技術力だって落ちているわけじゃないのヨ。ただ金いじくり回している連中のカラクリが起こしたマイナスのバブルに巻き込まれているだけでしょ。なのに慌てふためいて科学や音楽まで殺処分にしようとしてるのはマズイね。どう考えてもマズイ。一度殺したら元には戻らないのは人の命だけじゃないからね。
それにサ、高校生の部活みたいな政治やっている今の政府も怖いけど、普通の人が「平等」という時の目付き、あれもずいぶん怖くなったね。前にもどこかで言ったんだけど、むかしオジサンが若い頃は、「平等」と言うのは下にいるつらい目に遭っている人を引き上げて「みんな一緒に豊かになる」ことだったんだけどね。でも、今は、上にいてちょっとでもいい目を見ている人を下に引きずり下ろすことなのね。貧しても鈍しちゃいけないやナ。お釈迦サマも言ってるでしょ。貧しいものは幸いなのヨ。おっと、キリストさまだったっけか。あー、そう言えばもう来週はクリスマスだねー。救世主サマ来て欲しいよ。「何も思い煩うことはない」と言ってくれるだけでいいからサ。
事業仕分けでの文化芸術面の助成金カットには音楽家からも抗議の声が上がっていて、「もっと怒ってくださいよ」と言われる。でも、作曲家の身としては昔から「金はやらないよ」「お客も来ないよ」「おまえのやっていることに意味はないよ」とずっと言われ続けてきたので、今さら改めて怒る気にも(悲しむ気にも)ならない。
確かに日本は文化にかける予算が著しく低く(国家予算の0.1%前後らしい)、それは嘆かわしいことに違いないけれど、もともと「国」に文化的見識などあるはずもない。もし科学や文化芸術に国家予算が投入されるとしたら、それは軍事的か経済的か外交的か何らかの理由で国益になる場合に限るのであって、そうでない支出は「ムダ」というのは(残念ながら)正しい政治的見識なのだ。
それに対して科学者や芸術家は、「純粋な興味と生きている証し」だけが行動原理であり、両者は決して理解し合えず二権は分立するのが当然。時に利用したりされたりする関係になることはあっても、その思惑は平行線でしかない。
だからこそ文化は「個人」ひとりひとりが支えるべきもので、文化を創っているのは自分たちだという自負で、国の出る幕などなくすのが本筋のはず。今回の新政権による助成カットが心を冷えさせるのは、国の不見識のせいだけでなく「私は科学や文化芸術を理解する気もお金を出す気も見に行く気も支援する気もない。そういうことはすべて国がやるべきだ」という国民ひとりひとりの意識(本音?)が見え隠れするからだろう。
怒ってくれる必要も抗議してくれる必要もない。支えてくれる心と妖精を信じてくれる心があれば、妖精は……もとい、音楽は生き続ける。
先月行われた仙台ジュニアオーケストラ20周年記念定期演奏会の様子がHPでアップされていた。
仙台という街が育てた子供たちのためのオーケストラによる委嘱作「鳥のシンフォニア」の演奏は、そのレベルの高さとともに新しい曲の誕生を心から喜んでくれる温かさがあって、本当に作曲家冥利に尽きる演奏会だった。
もちろんプロのオーケストラや演奏家による初演の時も、それなりに温かい交歓はあるのだけれど、舞台上で聴衆の拍手を浴びてちょっと微笑むだけ…とか、結構クールなことが多い。終わってステージを降りたら、その瞬間から次のステージ次の作品への精進が始まるわけで、温かさに浸っている暇はないという感じか。
その「孤独」に慣れた身には、終わってからパーティを開いてまで喜び合うというのは、眩しすぎ羨ましすぎたりしたわけなのだ。
あれから寒々しい現実の風に吹かれながら「孤独」に音符を書き綴る日々。でも、あの時の子供たちの笑顔を思い出したら、なんだか元気をもらえたような気がした。感謝。
楽譜作成ソフト:フィナーレの最新版〈Finale 2010〉届く。
毎年新しいヴァージョンが発表されるが、細かい新機能は付くものの大幅な機能アップはない。ただ「最新バージョンにしておかないと(旧バージョンでは)楽譜が開けなくなる」という怖ろしいソフトなので、更新を怠れないのである。(なにしろ、2010で作成した楽譜は、もはや2009とか2008という過去の版では開くことすら出来ないのだ!)
今回も、目立った新機能というと……パーカッション譜を打ち込む時に楽器名が見える……というのと、リハーサルマークが付けやすくなった……というくらいか。
とは言え、知らないうちにマクロ機能やショートカットが増えていたり、PDFにする裏技が付いていたりするので、油断がならないのだが。
現在、スコア2冊(計250ページほど)が進行中なので、バージョンアップして文字化けとか不具合があったら大変……なのだが、今のところそれはなさそう*。
50歳過ぎて助手もなく手書きで250ページのスコアを書いていたら、今頃完全に発狂しているだろうが、これのおかげで軽い鬱になるくらいで済んでいる。
ありがたいことである。
*追記:翌日、コンピュータを再起動してみたら「ライセンス認証」が消えていることを発見。再度トライしてみても(まだ1台にしかインストールしていないのに)「既に制限回数(2回)を超えて認証」「ひとつを解除してください」のメッセージが出る。しかし、認証すらされていないので解除が出来ない……というトラブル。
早速メーカーに問い合わせメールを送信し、問題解決までしばらく「2010」は封印。旧「2009」で作業を進めることにする。
Blog「月刊クラシック音楽探偵事務所」更新。今回は、コンサートで聴く生(ライヴ)の音楽と、CDやiPodなどで聴く加工された(煮た)音楽とを比較検証する・・・「生の音楽と煮た音楽」。
音楽を生業としている身としては、もちろん「生(ライヴ)こそ絶対!」
…と言いたいところだが、修業時代に「LP・FM・スコア(楽譜)」を三種の神器としていた私にとって、わざわざ出かけていって「生(ライヴ)」で音楽を聴いた…というのは(音楽を始めてから現在までの40年でも)無理すれば「数えられる」位の回数のような気がする。
そもそもコンサートというのは、日時と場所を指定され、大勢の他人に囲まれて狭い椅子に座らされ、しかも閉じ込められて動けない…という時点でストレス要素大。
あんな「我慢」の空間でひたすら静かに聴く…ということを強いられるくらいなら、独りでCDを聴いている方が遙かに「本当の音楽」と向かい合える。
…というコンサート嫌いの私が、かつて唯一せっせと通っていたのが、なんと「現代音楽」のコンサート。
「え?なぜ?」…と誰しも思う驚愕のその理由は本編で。
「科学やスポーツや芸術文化にお金を使うのは基本的にムダ」というのは、思ってはいても(大人は)絶対言ってはいけないことのひとつだ。究極の「それを言っちゃあおしまい」である。
そもそも世の中には「すぐ食べられる」ものもあるけれど、春に植えて半年ほど汗水垂らしてようやく秋に収穫できるものもあるし、試行錯誤を繰り返し大樹に育ち繁殖しあるいは熟成するまで数年から数十年かかるものだってある。しかも、どんなに努力し苦労しても、無事収穫できる保証はない。
大人はそれを知っている。だから、目の前の損得を見るだけでなく、リスクを怖れず未来を育てる視点を忘れない。それが「文化」であり、そんな大人が作っているのが「社会」というものだ。
しかし、日本で「すぐ食べられない」ものを作り続けて四十余年、この国ではあまりその手の大人に出会うこともなく、「食えない」と言って無視され捨てられる方がもはや慣れっこになっているのも現実。
新しい政府による今回の事業仕分けで文化芸術関係もかなり削減されるのだろうが、あんまり音楽界から深刻な悲鳴が聞こえてこないのは、そもそもカットされて改めて深刻になるほど元々「国」から大した支援など受けていないからか。
そもそも申請とか認可とか助成とか交付とかいう「お役所(事務的)思考」と「文化芸術」というのはどうにもかみ合わない気がする。芸事というのは、物好きな旦那とか酔狂なパトロンが怪しく跋扈してこそ成立するものなのかも知れない。
むかし(前の政権の時代)、何かの国際シンポジウムでこの手の話になり、オランダの文化関係者が「ゴッホのように貧乏で死なせてしまう芸術家を出さないように、わが国では芸術家に支援のお金を出しています。日本も出すべきです」と発言したのに対して、日本の関係者がバッサリひとこと。
「ゴッホはお金がなかったからこそ芸術を極められたんでしょう?。お金があったら逆に傑作を残さなかったんじゃないですか」
確かに、貧乏でも芸を極めるのが芸術家だし、お金をもらって堕落することだってある。(だから、彼の言いぐさにも一理ある)
でも、それは芸術家の「信念」であって、他人が「それを言っちゃあおしまい」である。
知り合いが女優出演するというので、日本橋の劇場へお芝居(時代劇)を見に行く。
このところ仕事で頭が飽和状態なので、気分転換に音楽を忘れさせてくれる世界を……と思ったのだが、一心太助だの大久保彦左衛門だの徳川家光だののセリフを聞いているうちに、BGMに使われている音楽を楽譜に起こしている自分に気付く。いかんいかん。
しかし、生で演じる独特の緊張感や、観客の反応で変化する間合い、おいしい演技に痛い演技、役と地の狭間を揺れる役者の表情などなど、結構見ていて飽きない。
なるほど、こういう世界(芝居や舞台)に魅せられる人が引きも切らない理由が、何となく分かる気がした。
帰り道に、ふと思い付いて11年ぶりに復活した表参道のイルミネーションを見に寄る。
師走の金曜日の夜…ということで相当の混雑を覚悟していたのだが、人通りはさほどでもなく、イルミネーションもきれいでありながら何となく質素でエコっぽい。
なるほど、これが今の日本か。