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NHK402スタジオで「FMシンフォニーコンサート」10月分2本の収録。
10月3日(日):ジョリヴェ「トランペットと弦楽とピアノのためのコンチェルティーノ」(tp:マティアス・ヘフス)、ブルックナー「交響曲第9番ニ短調」。演奏は、尾高忠明指揮東京フィル。
もう一本は:スメタナ作曲「わが祖国」(全6曲。「高い城(ヴィシェフラード)」「モルダウ(ヴルタヴァ)」「シャールカ」「ボヘミアの森と草原から」「ターボル」「ブラニーク」)。小林研一郎指揮東京フィル(こちらは放送日未定)。
後半の「わが祖国」は、狭量な愛国心にうんざりさせられる事件の真っ最中とあって、ちょっと複雑な気分で聴いた。
ついでに、もし戦前の日本にスメタナ級の作曲家がいて、交響詩「わが祖国」というのを書いていたら…と思わず想像してしまったのだが、例えば、第1楽章「大和」(日本の心)、第2楽章「桜花」(日本の自然)、第3楽章「大東亜共栄圏」(アジアはひとつ)、第4楽章「靖国」(英霊たちの集うところ)……などという曲があったとして……
まあ、どんな感動的な名曲だとしても、おそらく歴史から抹殺されているだろうナ。(演奏しようものなら、お隣さんにレアアース輸出しないと脅迫されてしまうだろうし)
週刊「金曜日」の連載エッセイ(←イラスト付き)の原稿を送る。
選りにも選ってこんな「時間がない」時に、こんなごちゃごちゃと大人数を描き込んだイラストを2日がかりで描かなくても!と、ディープな自己嫌悪に。(さて、全部で何人いるでしょう?!)
そして、その「時間がない」の原因となっている〈マリンバ協奏曲〉の方は…(オーケストラの楽譜を書く時はいつもそうなのだけれど)…、永遠に終わらないシシュポスの労働みたいな状況。
曲自体は充分「楽しい」出来だと思うし、音符を書くのは決して嫌いではないのだけれど、スコア書きの最後のひと月というのは、終わらない堂々巡りの悪夢に似ていて、気分はほとんど〈放送禁止用語〉の域。
毎日、頭をよぎるのは、この言葉だけ。
「これは、本当に〈終わる〉ンだろうか?」
作曲家として演奏家に新作を提供するにあたっては3つの鉄則がある。
1.〆切を守ること。ただし、万一〆切より早く出来ても、決して楽譜を見せないこと。
…〆切厳守は(作家によって個人差があるが)職業上のポリシー。私の場合、通常「初演の一月前」(+パート譜作成期間)が基本だが、中には「3日前」と豪語する作曲家もいる。演奏家としては、楽譜が全くない状態でコンサートが近付くのは恐怖なので「早く見せてください」とせがむが、曲を理解する以外の余計なことを考える「余裕」を与えてしまうので厳禁(++;)。ちなみに、プロなら普通どんな曲でも「3日」あれば弾けるし、3日かけて弾けない曲は3年かけても弾けない。
2.演奏家が「演奏不可能」と言っても信じないこと。
…今までたくさん曲を書いてきて、中には初演のとき演奏家に「この曲は難しすぎて弾けません」と断言された曲も10はくだらないが、10年もたつと、若い演奏家や学生さんがリサイタルやコンクールで平気で演奏するようになる。最近、サクソフォンのコンクールで「ファジーバード・ソナタ」、管楽器コンクールで「デジタルバード組曲」、ギターコンクールで「風色ベクトル」、アコーデオンのコンクールで「オニオンバレエ組曲」がそれぞれ課題曲となったそうなのだが、いずれも初演の時は「演奏不可能」のお墨付きを貰った曲ばかりである。
3.演奏する「姿」に惑わされないこと。
…聴衆にとって演奏家のアクションは「音楽を聴く楽しみ」のひとつだが、作曲家は違う。演奏家がどんなに熱演のポーズをしても「音」にそれが出ていなければNG。逆に、どんなに見てくれが変でも「音」が音楽を描いていればOK。むかし、とある現代音楽の新作で指揮者がノリノリの指揮をしていたので「そんなにあの曲、気に入ったんですか?」と聞いたら、「いやあ、面白くない曲だから、指揮だけでも面白くと思ってネ」とウィンク (^_-)-☆。なので、特にCDなどの録音の時は、演奏家の熱演ポーズでうっかり「OK」を出すのは危険。音楽を聴くには、演奏家を見ずに聴くべし。
ちなみに、演奏家の鉄則はただひとつ。「作曲家の言うこと(&楽譜に書いてあること)をすべて信じてはいけない」(^^)
注)以上の鉄則はプロの音楽家限定。音楽を純粋に愛好するアマチュアはこの限りではないので、念のため。
作曲というのは……空から落ちてくる楽想を拾い集めて「お、これはきれい」とか「いやあ、これは歪み具合が何とも」とか「うーん、これは使い方次第か」などと言って並べている段階は楽しいのだが、それを最終的な「楽譜」にきっちり固定する作業は、結構修羅場になる。
音楽的な「夢」の世界から離れて、音符という「現実」と格闘しなければならないし、作業もかなり即物的かつ「事務処理」的な色合いを帯びるし、〆切とか初演とかから逆算した「タイム・リミット」を突き付けられてお尻に火が付いているし。
オーケストラのスコアの場合は、これが最低でも二週間。長い時は数ヶ月続く…。
そんなわけで、〆切前で目を血走らせてスコアを書いている作曲家と、冬眠前に空腹の極限でエサを探しているクマに「やあ、元気?」とか「お腹すいてる?」などと気軽に声を掛けて近付くのは極めて危険です。お気を付けください(> <;)
Blog「月刊クラシック音楽探偵事務所」9月号更新。
今回は、調性(ハーモニー)に関する雑学話「ハレルヤ・コーラスはなぜニ長調なのか?」。
猛暑の午後、池袋の芸術劇場へ東京ニューシティ管弦楽団の創立20周年記念演奏会を聴きに行く。
曽我大介氏の指揮で「鳥」づくしのプログラム。ハイドン:交響曲第83番「雌鶏」、私の「朱鷺によせる哀歌〜鳥は静かに〜鳥はふたたび」、レスピーギ:組曲「鳥」、ストラヴィンスキー組曲「火の鳥」。
朱鷺〜鳥しず〜鳥ふた…の3曲を続けて演奏する、というのは指揮の曽我氏のアイデア。(ちなみに、「鳥はふたたび」はフィンランドの音楽祭で彼によって初演された曲)。
3曲とも静かでゆっくりの(しかも、モチーフや構成もほぼ同じ)曲なので、続けて演奏して約30分というのは、(CDならともかく、コンサートでは)聴いていてどうなのだろう?とちょっと心配だったが、演奏の美しさでなんとか救われた感じ。
それにしても、9月に入ったというのに東京は相変わらずの猛暑。そんな中での「鳥づくし」コンサートに、指揮者と開口一番、「これじゃあ、焼き鳥のコースだね」「最後は火の鳥ですし」…というブラックな会話が。(「それはトークの時に言わない方がいいですよ」とマネージャーに釘を刺されつつ)
夏前の2ヶ月間、延々と改装工事をやっていて…一時は騒音から逃れて避難までした…仕事場の真上の階の部屋。
ようやく改装が終わって静かになったと思ったら、どうやら新住人が入ったらしく、ピアノの音が・・・
普通の人なら、別にどうということのない話だが、なにぶん「作曲家」という商売なので、例えて言えば……真っ白い布を織っている織物工房の上の部屋から、水がぽたりぽたりと垂れてくる……というような状況。恐怖度100%である。
以前なら、即、不動産屋に飛び込んで新しい部屋を探し、来週には引っ越し……というケースだが、今は・・・ちょっと動けず。天に祈るばかり。
ちなみに、こちらは作曲家を志してから30年間、仕事はすべて電子ピアノにヘッドホン。日本の住宅事情で、生ピアノから生音を出すなんて、考えたこともありません。