鴎外の舞姫
森鴎外の「舞姫」のモデルは誰か?という論争にほぼ終止符を打つNHK-BS「鴎外の恋人〜120年の真実」が実に興味深かった。
鴎外(森林太郎)は1884年(明治17年:22歳)に軍医の研修で4年ほどドイツに留学。ライプチヒ〜ドレスデン〜ミュンヘン〜ベルリンで勉学と公務をこなしながら、コンサートやオペラにせっせと通い、シンフォニーを「交響曲(総体は「交響體(ジムフォニイ)」と訳したのも彼。バッハからワグネル(ワーグナー)までのクラシック音楽を実に的確に把握した日記(独逸日記)も残している。
ちなみに、東宮侍医だった私の曾祖父(駒造)は、鴎外と同世代で彼に次ぐ二番手くらいに民間からドイツ留学して医学(小児科)を学んだ留学組。おかげで「ほぼ日本初の小児科専門医」として、昭和天皇の御幼少時の掛かり付け医に任命されたらしい。しかも、祖母方の出身地は鴎外と同じ津和野なので、昔から何となく他人事とは思えない(?)仲。
それはともかく、鴎外はこのベルリン時代に15歳のエリーゼなる少女と恋仲になり、「軍医の職を辞しても結婚する」と決め、帰国の際に一便遅い船でこの少女を日本に呼んでいる。しかし、この結婚は森家および陸軍の猛反対を受けて果たせず、少女エリーゼは失意のうちに独逸に帰国。その後の消息は杳として知れず(一説には、文通はしていたと言う)、鴎外はその苦渋と後悔の思い出を(太田豊太郎と少女エリスの恋として)処女小説「舞姫」に書き残している。
(この小説の中では、豊太郎が自分を捨てて帰国すると知ったエリスは発狂し、彼の子供を身ごもったまま病院に入れられる。この最後の顛末は、明らかにゲーテの「ファウスト」のグレーチェンを意識していて、後の鴎外による日本初の「ファウスト」完訳とも呼応する)
ただし、鴎外本人も森家も陸軍もこのことについては一切口をつぐんでいて、120年たつ今の今までそれ以上の「事実」は分からなかった。しかし、鴎外の後を追ってドイツ人少女が単身横浜の港に降り立ち、精養軒(ホテル)に一月ほど逗留した後に帰国したのは事実で、当時の乗船名簿には「ミス・エリーゼ・ヴィーゲルト」という名も残っているらしい。
この「舞姫事件」のヒロイン、一時は31歳の人妻エリーゼ・ヴァイゲルト説が最有力とされていたが、数年前に植木哲氏の新説で、ベルリンの裕福な仕立屋の娘アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト(当時15歳)が浮上。
今回のTV番組では、ドイツ人少女が残した刺繍のモノグラム(型金)の中に「RM」(森林太郎)というイニシャルとは別に、WやA・Bとも読める文字が隠れていることに注目。当時のベルリンの住所録などから彼女を特定してゆく。(このあたりは、手書きの戸籍を実際に探すしかないわけで、インターネットの検索などまったく役に立たない。現地に行くしかないわけだ)
さらに、ユダヤ系ではなくカトリックとプロテスタントの両親を持つ娘であること、少女の家の資産(祖父の遺産と所有するアパートの家賃収入など)から日本への渡航費を充分工面できる経済状態にあったこと、当時のドイツの法律では15歳の少女でも特別の届け出なしに海外(日本)への出国が可能だったこと、などを突き止める。
ここまででもほぼ90%決まりと思われたが、とどめは、鴎外の子供たちの名前。彼はこの事件の後に結婚した2人の妻との間に5人(一人は夭折)の子がおり、いずれも「於菟(おと=オットー)」「茉莉(まり=マリー)「不律(ふりつ=フリッツ)」とドイツ名でも使える命名をしているが、次女「杏奴(あんぬ)」三男「類(るい)」というのは、まさしく「アンナ」「ルイーゼ」ヴィーゲルトという恋人の名を仕込んだもの。
さらに、番組ではドイツに帰国した後のエリーゼの消息も追跡。彼女は、鴎外と別れて数年後にガラス職人と結婚し、1950年代(70歳代)まで存命だったという。孫たちには鴎外との一件は全く話さなかったが、その娘のひとりの名は「エリーゼ」という愛称だったそうだ。
教訓:証拠隠滅は最後まで気を抜かず「確実」に!
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熊田葦城の『赤毛布洋行奇談』という本に「吉松駒造の酒合戦」と題する一文が収められていますね。
それによると「吉松先生は大酒家の名を刀圭社会に轟かしたる豪傑」とあり、ドイツの士官連中を相手に酒合戦を始めた駒造先生、
25リットル以上のビールとシャンペンを飲み干して見事に楽勝したものの、介抱した士官の頭に
盛大にゲロを浴びせて「あれだけ吐いたんで大いに胸が空いた」と豪語したとか。
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760928/72
投稿: K | 2010年11月21日 (日) 14:50