曾祖父(駒造)のこと
昨年、自伝(作曲は鳥のように)を書いたとき、話の流れ上、先祖のことを少し調べることになった。それまでは、現在のヨシマツ家の始祖である曾祖父(駒造。1858〜1923)のことも、「日本初の小児科医で東宮侍医(昭和天皇の幼少時のお付きの医者)を務めた人」とくらいしか(子孫なのに呑気な話だが)知らなかったのである。しかし、東京大学医学部を卒業後、明治の中頃ドイツのブレスラウという地に留学し、帰国後日本橋に小児科医院を建てた…というあたりまでは確認できた。
しかし、それ以上細かいことは戦争で病院そのものも消失しているため分からなかったのだが、最近、坪井正五郞(1863〜1913)という日本初の人類学者について書かれた川村伸秀「坪井正五郎」(弘文堂)という本に、なんと彼と一緒にヨーロッパ行きの船に乗り合わせた日本人として「吉松駒造」の名を見付けることになった。(著者が指摘して送って下さったのである)
それによると、31歳の駒造は1889年(明治22年)6月9日、26歳の坪井氏らと客船メルボルン号に乗って横浜港から渡欧。7月22日にマルセイユ港に着。その頃開催されていたパリの万国博覧会(5月5日〜10月31日)を見にみんなでパリに行き、それから彼らと別れてブレスラウという街の大学に向かったらしい。
なにぶん古い話(125年前!)なので、曾祖父が「ドイツに留学した」とは聞いていたものの、「ホントに行ったの?」とうっすら疑念すら持っていたのだが、このブレスラウというのは旧ドイツ帝国領(第一次大戦以前)で現在はポーランドのヴロツワフだと最近知った。どうりでいくらドイツを調べても見つからないはずだ。
で、このブレスラウの大学。一般の人には馴染みのない名前かも知れないが、クラシック音楽ファンなら「ブラームスが《大学祝典序曲》を献呈した大学」と聞けば「ああ」と膝を打つ人もいるのでは。当時は、国際的な学者が集まる有名大学だったようだ。
曾祖父が医学を学ぶべくこのブレスラウ大学に留学したのは、そのブラームス先生が名誉博士号をもらったちょうど10年後!。その頃ブラームス先生まだ56歳だから、すれ違った可能性もゼロでは無さそう・・・(ついでに、パリの万博でドビュッシーとすれ違った可能性も・・・)。しかし、ドイツ人とビールの飲み比べをして勝った…というような酒飲み豪傑話は伝わっているものの、音楽に関する話は何もないまま、3年ほど留学して1891年(明治24年)32歳で帰国している。
さらに面白いことに、先日ポーランドの若いSaxophone奏者が私のFuzzyBirdとCyberBirdについての論文を書くのでインタビューしたいと来訪。そういう訪問を受けることはまずないのだが、彼の大学がなんと「ヴロツワフ」と聞いて会う気になった。
なにしろこのブレスラウの音楽大学というのは、「君が代」のオーケストラ版アレンジをした作曲家フランツ・エッケルトの出身校。彼は西洋音楽を日本に取り入れるため、明治12年(1879年)、日本政府に招聘されて来日。皇室の大喪の礼用の秘曲「哀の極(かなしみのきわみ)」なども作曲しているし、曾祖父が日本に帰って来てからも7年ほどは日本に居たようなので、すれ違った可能性も・・・
それにしても、色々なんとも不思議な因縁である。
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吉松駒造先生のお名前は、黒岩涙香『弊風一斑 蓄妾の実例』 (現代教養文庫)のp.80にも出てきますね。当時つまり明治31年の日本の名士たちが、どのようにお妾さんを囲っているかを暴き立てた本。
駒造先生は酒豪だっただけではなく、なかなかの艶福家だったようで…むにゃむにゃ。
投稿: 裏地見る幌櫃 | 2014年1月26日 (日) 15:39