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2014年2月

2014年2月28日 (金)

優しき取材

Ont この春(4月下旬)発売予定のCD「優しき玩具」(Camerata Tokyo)についてピアニスト河村泰子さんと一緒に取材を受ける。(聞き手:山野雄大氏)。CDに併せて楽譜(全3集)も音楽之友社から発売予定なので、その件に関する打合せも。

同じ月に「交響曲第6番&マリンバ協奏曲」(こちらはコロムビア)のCDも出るので、図らずも還暦を迎えて書いた最新の曲と10代(1970年代)で書いた旧作が40年の時空を越えて新譜で並ぶことになった・・・のだが、並べて聞いても「芸風がぜんぜん変わっていない」ことに自分でも吃驚・(^_^;。

三つ子の魂百まで…とは良く言ったもので、人間の本性は生涯変わらないモノだな…という感慨と共に、なんだか根本的に道を誤った感も(もはや手遅れだが)少し・・・(=_=)

Penpark

2014年2月27日 (木)

USEN@ピアノ人と作曲人

A57 □お知らせ

USEN A57「Classic People」の特別番組枠で舘野泉さんとの対談が放送されます。

番組コーナー名:《ピアノ人と作曲人》(2時間番組)
パーソナリティー:舘野泉・吉松隆

Usen 放送日:3月1日(土)〜31日(月)
【A57 USEN MONTHLY SPECIAL 「Classic People」】
放送時間:毎週火曜日0時~,4時~,8時~,12時〜,16時~,20時~(要するに火曜日は一日中ということらしい)、金曜日4時〜,18時~(一日2回)、土曜日0時〜,16時~(同)、日曜日12時〜,22時~(同)

USENの一部のチャンネルは最近スマホ用のアプリで聞くことも出来るようになったらしいので、興味がおありの方はどうぞ。ただし、このClassic Peopleは聴けない模様。

2014年2月25日 (火)

鳥の響展@クラシック倶楽部

Clcb□お知らせ

BSプレミアム《クラシック倶楽部》で吉松隆 還暦コンサート Ⅱ ~鳥の響展~が放送されます
日時:3月4日(火)午前06:00〜06:55

放送曲目
スパイラルバード組曲から〈バードスパイラル〉&〈ロマンス〉
 ・・・ホルン:福川伸陽、ピアノ:三浦友理枝

プレイアデス舞曲集から〈線形のロマンス〉〈鳥のいる間奏曲〉〈真夜中のノエル〉、4つの小さな夢の歌から〈春〜5月の夢の歌〉・・・ ピアノ:田部京子

ドーリアン
タルカス(作曲:キース・エマーソン/グレッグ・レイク、編曲:吉松隆)
・・・ 指揮:藤岡幸夫、東京フィルハーモニー交響楽団

(2013年3月20日東京オペラシティ「鳥の響展」コンサートで収録)

2014年2月24日 (月)

EQ

Eqy アンネの日記事件で頭がミステリー脳になってしまったので、久しぶりにエラリー・クイーンの「悲劇四部作(Xの悲劇、Yの悲劇、Zの悲劇、最後の事件)」を再読中。

このE.クイーン、御存知のようにフレデリック・ダネイとマンフレッド・リー共作のペンネーム。アイデアやプロットを思い付くのは上手いが文章にするのは苦手というDと、文章は上手いがアイデアを練るのは苦手なLの見事な従兄弟コンビで、共作していることは秘密のままアメリカ最大の探偵小説家にまで登り詰めた。何だかどこかで聞いたような話だが・・・

この事実、十数年にわたって読者どころか彼らに近しい人たちすら気付かなかったそうで、「実は」と告白したときは大騒ぎだったと思うのだが、どういう反応だったのだろう? 

しかも、この四部作の名探偵ドルリー・レーンは、耳の聞こえない元役者あがりの探偵という設定。これも、何だかどこかで聞いたような・・・

2014年2月23日 (日)

アンネの日記事件

6napo東京の図書館で「アンネの日記」ばかり300冊近くが破られているのが見つかったという事件・・・

ミステリーマニアなら直ぐにシャーロック・ホームズの「6つのナポレオン」(「ホームズの帰還」収録。ナポレオンの石膏像ばかりが壊される事件が連続して発生する。その真相は・・)を思い出すはず。

「ナポレオンの石膏像」ならぬ「図書館のアンネの日記」を損壊する理由・・・???気になる???。

2014年2月20日 (木)

スキャナーSV600

Sv600a大判の手書き楽譜(主にスコア)をスキャン入力する必要にかられ、ScanSnap SV600という機種を手に入れる。

既に持っている箱形のScanSnapはA4までのばらけた原稿には最適だが、綴じた本やB4以上の大判の原稿のスキャンは不可。そこで電気スタンド(オーバーヘッド)型のこの器械に望みを託したわけだが・・・

文字通り「電気スタンド」型の頭から光を出して下に置いた原稿を読み取るので、見開きにした分厚い本でも読み取り可能。カラーで最高600dpi、白黒(グレー)なら1200dpiで読み取る(1pあたり4〜5秒くらいか)ので、PDFにしてiPadで読むような自炊は楽勝だ。

ただ、斜め上30センチくらいの処から光を発して読み取るので、微妙に歪む。ページの歪み自体は同梱の専用ソフトで修正できるので、普通の文字では気にならないが、楽譜では五線がかすかに歪んでしまうのが難点。まあ、気にしなければいいという程度の歪みではあるのだけれど。

Scansnap_2 さらに、基本的に1ページ1ページ開いて〜スキャンして〜歪みを補正して〜保存して〜という手作業になるので、これを何十ページもやるのは・・・かなり大変・(×_×)

これに《ページめくり専用ミニ妖精》が付くと嬉しいのだが・・・。

2014年2月18日 (火)

雪景色の向こうのアフリカ

Sampleq4月に発売予定のCD〈交響曲第6番&マリンバ協奏曲〉の収録テイク確認。

実は今回のマリンバ協奏曲はCD用に録音されたものではなく、2011年1月23日に行われた山形交響楽団定期演奏会でのライヴ(Mb:三村奈々恵、指揮:飯森範親)。

三村奈々恵さんはリハーサルから全曲暗譜で圧倒的な演奏を聴かせ、オーケストラの方も2回公演の最終日で初演の緊張も解け、指揮の飯森範親さん共々「最後は金管、立っちゃいましょうか?」「立っちゃいましょう!」というノリで弾けた演奏を展開。そのあまりの圧巻ぶりに「これは絶対CDにして皆に聴いてもらいたいッ!」と無理やり頼み込んで実現したもの。

1月の山形(もちろん深い雪の中)で行われた演奏ながら、その向こうにアフリカの灼熱の太陽が見えるかのような熱演。乞うご期待。

2014年2月16日 (日)

優しき玩具 1st Edit

Pianistf昨年秋に録音したCD「優しき玩具」の1st edit 届く。

1〜2分ほどのピアノ小品が全部で35曲…というのは奇しくもプレイアデス舞曲集と同じだが、あちらは全7曲の曲集が5つで35曲。一方、今度のは12の前奏曲集が3つ(マイナス1曲)で35曲。というわけで曲の並べ方をどうするか思案中。

Penguinf_2CD用にイラスト&カットも幾つか描いているのだが、(中に「ペンギン公園の午後」という曲もあるので)ピアニスト河村泰子サンとペンギンとの絡みも・φ(.. )

そのイラストを彼女が友だちに見せたら「貴女、ヨシマツさんに遊ばれてるわよ」と言われたとか。そりゃ、そうだけど、意味が違う・(^_^;

2014年2月14日 (金)

雪の茶屋

214_2先週に続いて東京はまた雪。

雪が降ると・・・歩いてほんの5分の仕事場まで辿り着けず自宅待機になる。小さいながら「ひと山」越さなければならないので、急な坂道の上り下りが徒歩ではちょっと危険なのだ。(もちろん若い人たちは滑りながらもスタスタと越えてゆくが)

「途中に山小屋でもあればねぇ」と冗談で母に言ったら「あら、昔は峠の茶屋があったわよ」というので吃驚。60年ここに住んでいて、そんな話は初めて聞いた。

2014年2月11日 (火)

まだやるかS氏騒動・演奏家編

Bachl まだやるのか・・・と言われそうだが、今回の佐村河内/新垣氏の曲に関して、演奏にあたった方々まで非難するような言説を耳にしたのでひとこと(にしてはまた長文多謝なのだが)

ポップスのように「音にされた(ほぼ)完成形」を最初からCDなどで聴けるジャンルと違って、クラシック系音楽の場合、作品が「作曲」されただけでは「楽譜」という単なる「記号の群」でしかない。それに生命を吹き込むのが演奏家の仕事だ。

例えばバッハの作品にしても、楽譜だけ見た限りではパズルのように入り組んだ設計図か暗号表のような代物だ。しかし、演奏家はそのパズルを解きほぐしメロディやハーモニーの絡み具合を感情の起伏とシンクロさせてゆく。その結果生まれるのが「音楽」であり、それを聴くことが「感動」という至福の快楽を生む仕掛けだ。

その際、演奏する側が「なんだかわけの分からない弾きにくい曲だなァ」などと思って弾けば、いかに大バッハの名曲といえど単なる「騒音」になり果てる。(ピアノの練習のアレな音のアレである・(^_^;。一方「深遠な作品なので心して弾かねば」という敬虔さを持って弾けば、そこに神の姿が立ち上ることすらある。それが「音楽」。(だからこそ、クラシック音楽の場合は、指揮者や演奏家が違うと同じ曲でも全く違った音楽になるわけだ)

今でこそ「不滅の名曲」というお墨付きがある曲も、初演の時は「まだ海のものとも山のものとも知れぬ代物」であり、書いた作曲家がいくら「これは大傑作である」と言い張っても、演奏する側は弾きにくい部分や理解できない処ばかりの「わけの分からない」曲であると思うことは実に多い。その結果、あまり調整が出来ないまま演奏してしまって初演は大コケ、失敗作・駄作という烙印を押されてしまう…というような例は、ベートーヴェンにしろチャイコフスキーにしろ枚挙にいとまがない。

そういう轍を踏まないように、今の演奏家たちや指揮者たちは、例えば現代曲の新作とか新人のコンクール参加作品などを演奏するときでも「全力で」演奏する。心の奥では「なんだか若い知らない作家のつまらん曲だなァ」と思っても「怪しげなヘンな作曲家だなぁ」と思っても、そういう偏見の加わった演奏をすれば、それはそのまま演奏のつまらなさに繋がり、結果初演が失敗することで新しい才能や名作を潰しかねないからだ。

今回の曲(交響曲)に関して指揮者の大野和士氏が、音をちょっと聴いたがそれ以上聞く気にもならず演奏する気にもならなかったと告白されているが、それは確かにきわめて良識的な見解だろう。しかし、そうやって演奏以前の段階で良識の壁に阻まれて闇に葬られた新作が膨大にある中、「新しい作品をできる限りいい状態で多くの人に紹介しよう」と誠意を尽くして演奏した今回の日本の演奏家たちの行為は、賞賛されることはあっても非難されるべきものではない。

ヨーロッパのクラシック音楽界では、200年も300年もの間、名作が埋もれている横で凡作がはびこっていたり、作曲家が生きている間は傑作扱いだったのに亡くなったら忘却されたり、逆に初演に失敗して作曲家は失意の内に亡くなったものの死後年月と共に名曲という評価がうなぎ登りになったり…という歴史と場数を踏んできている。その結果、今私たちが聴いている「お墨付きの名曲」があり音楽界の成熟があるわけなのだが、日本はと言うと本格的にオーケストラ音楽が定着してまだ100年ほど。自分たちの音楽をそうやって選び抜いてきた経験があまりない。

今の日本の音楽界は優れた音楽家を多く輩出しているが、ほとんどが「外国で評価されたから」「国際的な場で活躍しているから」というような「他力本願?」に左右される。そのため、本当に才能ある音楽家ほど海外に出て行ってしまい、一方で若い作曲家たちは国内で発表の場さえ与えられず苦しんでいるという現実がある。今、この騒動で日本の音楽界が直面しているのは、自分たちの国の中から不思議な形で生まれた「まだ海のものとも山のものとも分からない」作品をどういう位置づけで自分たちのものとし後世に伝えるかを「自分たちだけで判断する」正念場ということになる。
それが「痛み」を伴うのは今の流れから見て確実だが、それを超えてさらなる向こうに行くのが、今まで(そういった痛みを乗り越えて生き残ってきた)外国の「名曲」たちを享受してきた私たちのいわば義務だろうか。

ただし、はるかヨーロッパの音楽界からこれを見れば、(敢えて!敢えて例えるなら)100年以上遅れてチェコにおけるスメタナやフィンランドにおけるシベリウスのようなタイプの音楽の登場でわいわい騒いでいるみたいなものなので、「100年遅れてるヨ」と呆れられるのは致し方ないけれど。

ちなみに日本にも、戦後のいわゆる現代音楽の中に「名作」は数多くある。そして、多くの専門家たちが「傑作」であると「お墨付き」を与え、「賞」まで出して普及を務めた。しかし、それでもレコード化すらかなわず、幸運にもCDにされたものも今はほとんど廃盤…という冷たい現実がそそり立つ。そういう現実を見てきた目には、「お墨付き」くらいでみんなに聞いてもらえるなら苦労はないよなァ…とぼやくしかない。とにかく聴いてください、そして自分の耳で判断して下さい。それが「お墨付き」なのだから。

そもそも(繰り返し言うけれど)「作品」は作曲されただけではただの「音符の群」に過ぎない。演奏家によって引き上げられ高められ、そこで初めて聴衆のジャッジを受ける。そうやって人間の音楽文化は綿々と続いてきたのだから、その根底となる演奏家たちの「演奏行為」や聴衆による「評価の是非(ブレのようなもの)」そのものを否定してしまったらお仕舞いだ。

「不滅の名曲というお墨付きがあったのでベートーヴェンを聞いたがつまらなかった」でもいいし「専門家は誰もいいと言わない曲だけれど、私は個人的に傑作だと思う」でもいいし「曲はお粗末だったかも知れないが、演奏は素晴らしかったので感動してしまった」でもいい。そういうスクランブルな状態からこそ「未来」は生まれるはずだ。・・・ト、今回は少しマジメに。

2014年2月10日 (月)

なるほどS氏騒動

Miro1 例のS氏騒動。いろいろな事実が出て来るにつれ「何がホントで何がウソか」と悩む人が続出しているようだが、私は逆にあの曲を聞いたときの「嫉妬」に似た感情の出所と理由がすべて解きほぐされるような現在の成り行きに(不謹慎ながら)「なるほど、なるほど」とひとり感心している。

あの「ロマン派そのまま」で「時代錯誤」で「映画音楽みたい」などなど現在言われているような悪口をすべて吞み込んだうえで、堂々と(そしてヌケヌケと)1時間強の巨大妄想に満ちたシンフォニーを書く。その「根性」と肝の座り方に私は(こんなことをやる若い作曲家が出て来たなんて!と)吃驚したと共にものすごい「嫉妬」を憶えた訳なのだが、ああいうやり方で作っていたと知り(結果的におまえも共犯やろ!という罵声も小鳥のさえずりにしか聞こえないほど)すべてが納得できた爽やか感に今浸っている。

なので、私としてはもう彼らのコトなんかどうでもよくて(ごめん・笑)、あの二人の間に生まれた可愛い「交響曲」がいじめられた末どこかに埋められたりしないように、出来るだけのことをしたいと思うばかり。そして、これからも若い作曲家がヌケヌケと面白い曲を書いたら「推薦」する労は惜しまないつもりである。ま、推薦されたら逆に売れなくなるかも知れないが・(^_^;

それから、そうそう、フェアを期すために彼のことについて書いた私の過去の記事にはリンクを張っておく。いずれも無名の作曲家が「一人で書いた」と信じていた頃のものだから今読むと幾分ピントはずれは否めないが、その後の反響の大きさからみると逆に「過小評価」していたとすら思えてくるところが怖い。

http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2008/01/post_ce52.html
最初に彼の本を読んだときの記事(2008/1/13)
http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2010/01/post-b821.html
最初に曲を耳にした時の記事(2010/1/14)
http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2011/05/post-dbf1.html
彼のCDサンプルが届いたときの記事(2011/5/26)

2014年2月 9日 (日)

命日のタルカス

209m父の命日に墓参りに行く。

都内なのにうっかりすると(場所によっては)遭難してしまいそうになる大雪。実家の近くの東京都知事選挙の投票所も、雪ですべって登るのが大変な坂の上。おかげで体の芯から冷えてしまった。

夜は〈プログレonクラシック〉という企画のコンサートで「タルカス」が演奏されたらしいが、行けず。残念。

209p

ひとまずS氏騒動

Rabbit ここ数日、この騒動のあまりの興味深さについ年甲斐もなく多弁になってしまったが、隠居の侘び住まいにかくも大勢の方々にお越し頂き、感謝と共に妄言多謝。

別に誠実に対応したわけでも言い訳の必要に駆られたわけでもなく、こういう何の利益にもならず頼まれもしないことに思わず本気で首を突っ込んでしまうのは根っからの性分。その性格のおかげでS氏の件に巻き込まれたと言えば言えるわけだが、私が推薦してCDが18万枚売れるなら、シベリウス師匠の後期の作品などをもっと聴いて欲しい。(おッと、そんなことを言うとそれが目的のステマと思われるか)

そもそもこういう泥沼っぽい争いの渦中に「仲裁」に入ると、双方から「お前はどっちの味方なんだ!」と攻撃され要らぬトバッチリを食うので、ほとぼりが冷めるまで傍観しているのが利口なのだが、やはり私は交響曲莫迦の血が脈々と流れているのか隠居の道楽なのか、可愛い「交響曲」が俎上に載って棒で突かれ虐められていると聞くと居ても立ってもいられず「まあまあ、助さんも格さんも落ち着いて」と思わず間に入ってしまった次第。

おかげで、いつもは私のことを知っている数名が訪れるだけのこのブログも、全く知らない方々がいきなりリンク先からどこでもドアで大勢乱入されるようになり、ちょっと気を遣ってしまった。言葉遣いだけは注意したつもりだが(でも思わず「ぶん殴る」なんて書いてしまったけれど。あれはS氏が結果的に大事な人を傷つけたから)、それでも「あ、そこにそう反応するか!」という思いもかけない部分へのツッコミはなかなか新鮮。肯定される方、否定される方、挑発なさる方、誤読される方、錯乱されている方、完全に誤解されている方、通りすがりに落書きされる方、なかなか深い洞察力を持っておられる方、いろいろな花が咲き乱れて花壇のよう。どれがナンバーワンというわけではなく、みんなオンリーワンである。・_(_^_)_

ただ、面白がっていられないのはS/Nお二人の今後のこと。今は「叩くだけ叩く」流れだが、しばらくたって冷静に考えたら「そこまでやらなくても良かったのでは」と思うことになりそうなのは、ちょっと前までの「持ち上げるだけ持ち上げる」流れの中で感じたことと同じ危惧感。しかも今回の件、まだ少なくとももう「一展開」つまりS氏側のリアクションがあるわけで、現状180度反転のこの展開がさらに加速するのか?あるいは違った揺り戻しがあるのか?…と目が放せない。とは言え、別に私はこの騒動を追跡するレポーターではないので、どなたか客観的かつ冷静な視点で是非この騒動の顛末を後世に伝えていただければ幸いである。

追記:コメントは肯定否定挑発誤読錯乱いずれも歓迎ですが、汚い言葉や泥酔されている方の言辞だけはMACの迷惑コメントフィルターで自動的に削除されることがあります。ご容赦下さい。

2014年2月 8日 (土)

しつこくS氏騒動・交響曲編

28 S氏の《交響曲第1番》を最初に耳にしたのは、初演(2008年広島)の時の様子を映したYouTubeでの録画だ。この時は、G8議長サミット記念コンサートという名目で《交響曲》の1・3楽章が披露された(さすがに全曲では「長すぎる」と主催者側が判断したのだろう。それでもたっぷり40分以上という大曲だ)。

その頃のS氏はWikipediaにも未記載の無名の作曲家(ゲーム音楽マニアなら鬼武者の音楽で名前くらいは知っていたのかも知れないが)。当然、会場に聴きに来ていたお客のほとんどは「広島出身の若い作曲家」というくらいの知識しかない一般の人たちだったと思う。しかし、その「誰もが初めて聴く」しかも「オーケストラだけ」の音楽が「歌も映像も何もなく」1時間もの間延々と流れるのを、ホールを埋めた聴衆は(少なくとも)飽きることなくずっと耳を傾け、曲が終わると同時に万雷の拍手を浴びせていたのである。これは(実を言うと)現代の新作オーケストラとしては希な事態であり、これだけでも充分「事件」だったわけだ。

確かにあちこちチャイコフスキーが聞こえショスタコーヴィチが混じりマーラーが鳴り響く寄せ集めの音楽と言えば言えたのだが、なぜか「なんだ、つまらない」と切り捨てて画面を切り替えることが出来ず、全曲を聴いてしまった。そして「なんなんだ?これは」と思ったのが最初の感想だった。その後、2010年に東京で全曲が演奏されたときも同じ光景が繰り広げられたという。それが今回の「伝説(事件)」の始まりである。

考えてみても、普通の人を(感動させるかどうかは別として)1時間以上じっと椅子に座ったまま飽きさせないというのは、実は大変なことである。映画でも舞台でもテレビでも学校の授業でも、人を相手にする仕事にかかわったことがある人なら身に染みてお分かりだろうが、どんなに面白いことをやっても興味を持続してくれるのはせいぜい数分。テレビでは映像があっても「15秒まで」、「音」だけの場合は「せいぜい4秒」という人すらいる。コンサートなら飽きたら帰ってしまうか、少なくとも寝てしまうし、テレビならチャンネルを替えられてしまう。

そう考えると、この曲を「色々なクラシック名曲を混ぜ合わせただけのごたまぜの作品」とか「学生レベルの稚拙なスコア」と卑しめるのは簡単だが、それでは逆にその「稚拙なスコア」で書かれた「ごたまぜの作品」が、なぜ1時間にも渡って聴衆の耳を引き付けて放さない音楽として成立したのか?そしてそれをコンサートやCDで聴くために多くの人が押し寄せたのか?ということの方に着目せざるをえなくなってしまう。

もちろん初演の段階から「私はいいと思わなかった」「いかがわしい音楽と感じた」「空虚な音楽だと思った」という批判もあった。しかし、それはワグナーやブラームスにもマーラーやショスタコーヴィチにも投げつけられた言葉であり、残念ながら「ひとつの感想」として貴重ではあるにしても決定的な否定材料にはならない。私もブラームスやシューマンなどのドイツロマン派は「苦手(あんまりいいと思わない)」だが、それは「甘い物は苦手」という嗜好と同じ。そういった「好き嫌い」の向こうにある真価(食べ物で言うなら滋養栄養)を見据えるのが文化であり「音楽を聴く」と言うことだと理解している。

もうひとつ、「楽譜も読めない男が紙ペラ一枚のプロット表を作り」「それを見た音楽大出の普通の作曲家が意味もよく分からないまま音符にした」ということも非難されがちだが、それが事実ならむしろそちらの方がはるかに音楽的に驚愕すべきことのように思う。古今東西、作曲法の勉強を極めたプロの作曲家が技術の粋を結集して創作した音楽が、聴衆の興味を5分も引きつけられない…ということがいかに多いことか。それを考えると、今回の事実を「まがいもの」とか「インチキ」と過小評価して重大なことを見落とす愚は犯したくないという意を改めて強くする。

もちろんあの「交響曲」がベートーヴェンやマーラーと比肩する物だとはいくら私でも思わない。ただ「名曲というのは名曲として生まれるのではない。名曲になるのだ」という怪しい諺(私が作ったのだがm(__)m)の通り、名曲・傑作を作るのは作曲家でも評論家でも音楽の専門家でもなく、音楽を聴く一般の「みなさん」である。100年200年の間に生まれた何万何億の音楽・何千何万の作曲家の中から、ほんの一握りの「選ばれた名曲」が淘汰されて残り、今それを私たちが享受している。その恩恵を受けた私たちは新しく「自分たちの時代の名曲」を作り選別し後世に伝える義務がある。

となると、あの「交響曲」も、数日前まで流布していた「耳の聞こえない天才が書いた奇跡のシンフォニー」という仰々しい表紙は抹消されたものの、この騒動の落としどころによっては数年後に「S/Nコンビの共同作業が生み出した日本初の本格的ロマン派シンフォニー」くらいの表紙でコンサートのレパートリーになってる可能性はゼロではないように思える。

Piano_cut008もっとも現時点では、ほんの数日前まで「天才」として祭り上げた偶像を「ペテン師」まで蹴落とすことにみんな必死だ。実際、私も交響曲が売れ出してから以降の彼の「人間としての行動(暴走)」にはぶん殴ってやりたい衝動を覚える。折角生まれた可愛い作品をドブに捨てかねない結果を生み、彼の音楽をバックアップした多くの音楽家たちの善意を踏みにじったからだ。
(実は、CDが出る直前…推薦のコメントを録画すると言うときになって…担当者から「タイトルはHIROSHIMAになります」と言われて吃驚し「それはやめた方がいい」と進言したことがある。そして「作曲家同士で対談しよう」と申し込んだのだが、「彼はそういうことはしないそうです」とあっさり却下されてしまった。今になってみれば「そういうことか」と思い当たるが、あの時にぶん殴ってでも止めるべきだったか・凸(ーーメ

しかし、一方作曲家としての目から見ると、彼の実像がいかがわしい卑小な男であればあるほど、そして共作者が気の弱い無力な人であればあるほど、この2人の間に生まれた「1時間以上にわたってなぜか人の耳を引きつけ、18万の人を虚構のロマン世界に誘い込んだ音楽」の誕生の秘密には(困ったことに)改めて「嫉妬」を覚えざるをえないのもまた事実なのである。

2014年2月 7日 (金)

またS氏騒動・長文多謝

Piano_cut009昨日午後、NHKでFM「ブラボー!オーケストラ」3月分1本の収録。

NHKのスタジオに入って挨拶の最初の一言が「えらいことになりましたね〜」だったので、S氏騒動の波紋はあちこちに広がっていることが知れる。スタジオに入っていたおかげで例の影のライターN氏の記者会見を見ることが出来なかったのだが、終わってからネットでチェックしてみた。

今回の件、S氏の虚偽項目が色々出て来るに及んで(テレビや新聞はドキュメンタリーや取材記事で彼の虚偽の言動や記述を報道してしまった点、音楽関係ではやはり著作物の虚偽申請にかかわる点で)事後処理にてんやわんやだが、それは社会的な問題。音楽界での問題は、彼の音楽やCDを聞いて感動してしまった人たちのPTSD(心的外傷後ストレス障害)だろうか。「だまされた」というショックとそれでも彼の音楽に感動してしまったという記憶の板挟みから「書いたのは嘘つきでも音楽は別もの」という《悩んだ末の肯定派》と、「嘘つきが書いたんだから作品も駄作」と切り捨てる《手のひら返しの否定派》に大きく分かれるようだ。

私としては、確かに交響曲のCDが出て有名になってから以降の彼の作品の「劣化」ぶりは気になっていたが、あの《交響曲》自体は「人を騙してやろう」という思って書いたにしてはあまりに「誠実」な響きがするのが気になっていた。(前回のブログ末尾で「現時点での発言は慎重に」と書いたのは、今簡単に「作曲家が嘘つきだから駄作!」と言い切るのは、一昨日まで「作曲家が天才だから傑作!」と言い切っていたのと同じ「底の浅さ」を露呈するからだ)

そもそも、あの「交響曲」が書かれた時点(2003年頃)では、「売れる」どころか長すぎてコンサートでも全曲演奏が不可能な状態だったのだ。もちろんCD化の話も皆無だったはずだから、どこからもお金が入ることもなく、完全な大赤字だったはず。あれは確かに(売れない作曲家が二人で共同制作した)純粋に音楽的な熱意によって生み落とされた真摯な交響曲と言っていいと思う。

では、以後の「怪しい仕掛け」と今回の「どんでん返し」は何だったのか?ということになるのだが、自ら「共犯」という(ゴーストライターというにはあまりに真面目で気弱そうな)N氏の会見の様子を聞き、ようやく「なるほどこれはビートルズとジョージ・マーティンの(ような)関係だったのか!」と得心した。追記:これはもちろん共犯の関係が…という意味ではなく、共同制作における対峙のバランスが…という意味です。念のため

御存知のように、ビートルズ自身はコードネームの知識こそあるものの正式な音楽教育は受けておらずクラシックの素養はほぼゼロ。たぶん「イエスタデイ」や「エリノア・リグビー」もポール・マッカートニーがメロディをギター伴奏の鼻歌でふんふんと歌って、プロデューサーのG.マーティンに「バックはクラシックっぽいのが面白いんじゃない?」「じゃあ弦楽四重奏なんかどうだろう?」というやり取りの中で作品が生まれていった気がする。アルバム「サージェント・ペパーズ」などはその結果生まれた傑作で、マーチングバンドからインド音楽そしてフルオーケストラまでが駆使される。アイデアを出すのは専門的な音楽知識がないメンバーで(だからこそ)「ここでジャズっぽく」とか「ブラスが入って」とか「オーケストラ全員で」と思いつくままのアイデアを言うことができた。それを、アレンジや楽器の知識はあるがそういう新しいアイデアはとても思い付かないプロデューサーが自分の音楽知識を総動員して注文に応える。その共同制作の結果生まれたのが彼らの中期の名作群だ。

今回のS/Nコンビもこれに似ている。S氏自身は(ロックバンドをやるくらいの音楽知識はあるものの)クラシックや作曲法の知識はない。当然「売れない自称音楽家」でしかない。しかも若い頃から難聴に悩まされている。そこにゲーム音楽の注文が来る。そこで、自分のアイデアをスコアにしてくれる専門家として音楽大学作曲科のN氏に、作品を発注する(いわゆる「下請け」だ)。この頃書かれた「鬼武者」(1999年頃?)の音楽は巨大なフルオーケストラに和楽器群が加わるなかなか意欲的な作品だ。このオーケストラサウンドの魅力に惹かれて、S氏は「交響曲を書こう」と思い立ったに違いない。

それがあの《交響曲第1番》である。もともとは(広島とは全く関係なく)「現代典礼」というコンセプトだったようで、アイデア設定表を見ると西洋宗教音楽(グレゴリオ聖歌やビクトリア、バードからバッハまで)から20世紀音楽(オルフやペンデレツキ)までを俯瞰する全3楽章の壮大な構想だ(しかも、ペンデュラムというロックバンドの名前まで混じっている!)。全曲の時間設定が「74分」(CD1枚の収容時間)という点からCD化を前提にしていたことが分かる。

Sn

この時点(2003年?)では、本気で(売れる売れないではなく)「世間をアッと言わせるような世界的な傑作を作りたい」という純粋な熱意があったのだろう。それは本物だと思う。実際、「売れるアテ」などその時点では全くなかったのだから。

面白いのは、(私も独学でロック経由だったのでよく分かるのだが)このアイデア表の素材の中に(バッハ以前と現代作品はあるのに)肝心のドイツロマン派から近代音楽までの「クラシック音楽の基本」がすっぽり抜けていることだ。なのにビクトリアやバード、そしてオルフとかペンデレツキといったマニアっぽい作曲家は知っている。ロック畑出身というかビートルズっぽいというかその音楽知識のアンバランスさが興味深い。

一方、そんなS氏から「こんな感じで作って欲しい」と発注された音楽大学作曲科出身のN氏の方は、その「クラシック音楽の基本」を叩き込まれた専門家。彼はクラシックの基本から脱却した「現代音楽」の世界に身を置いているので、S氏のような現代のクラシック音楽の常識からはずれたぶっ飛んだヴィジョンはない。結果(S氏からの奇妙な注文に四苦八苦しながら)、自分が音楽大学で習った古典の知識を総動員し、生真面目かつ誠実にチャイコフスキーやマーラーといった(S氏の発注にはない)ロマン派のハーモニーやオーケストレイションの書式をこってり盛り込むことになったわけだ。(私が最初に聞いて、素人の聴衆を1時間以上飽きさせないこの曲の不思議な「構成力」に感心したのは、この綿密なタイムチャートがあったためのようだ)

この「発想とアイデアの誇大妄想的異形さ」と「作曲法とオーケストラ書法の職人的精緻さ」という両者の(まったく異質な)要素が偶然合体し、あの(時代錯誤という非難も世の常識も怖れない)「壮大なロマン派交響曲」を生んだことになる。音楽に関わる者としては「なるほど。こういうやり方があったか!」と膝を打つ(というよりビートルズの例を聞いてから、業界の誰でもうすうすは考えていたやり方なのだが)絶妙な作曲システムである。

ところが、演奏時間74分と言う長いオーケストラ作品など演奏してくれるところはどこにもない。作曲後5年もたって(2008年)やっと演奏してもらえることになったものの、広島の会議場で「1・3楽章だけ」という状況。ようやく全曲初演にこぎつけたのは2010年8月だから、作曲から7年もたっている。これでは「売れる」とか「お金になる」というレベルでは全くない。しかも実際に演奏してみると80分を超えそうなのでCD1枚に収まりそうもない(現在は80分以上でも収録可能。実際この曲はギリギリながらCD1枚に収録されている)。この「大誤算」に頭を抱えていたのが私が彼の音楽に出会った頃ということになる。

それにしても、「耳がよく聞こえないので、オーケストレイターN氏の協力を得て大交響曲を作りました」…というだけでも充分音楽界に一石を投じる活動が可能だったろうと今でも思う。実際、その段階で三枝成彰氏が注目し(若手作曲家の登竜門である)「芥川作曲賞」に推薦(2009年)している(もっとも共作では結局審査に通らなかっただろうけれど)。感動云々を抜きにしても、作曲賞を取るくらいには充分「良く書けた力作」だからだ。ただし、芥川作曲賞や尾高賞のような賞を取ったとしてもCD化は難しいし、万一CDになったとしても「無名の新人の交響曲」のセールスではせいぜい千枚行くかどうか。「お金になる」とは程遠い(それは私の例を見れば良く分かる(笑)。その失望が彼を次のステップに踏み出させたのだろうか。

さて、ここから彼の悪魔的な進撃が始まる訳なのだが、まず彼の頭によぎったのは、特異な人生やハンデキャップを持った音楽家たちの奇跡的な「物語」が大衆の熱狂を誘発するという(プロデューサーらしい着眼点による)幾つかの実例だったのだろう。自分も「広島出身」で「被爆二世」という物語を持っているし「難聴(聴覚障害)」というハンデキャップも抱えている。この2点セットを持ち出せば少なくとも否定的な批評は(弱者に対する攻撃と見なされるので)封印できる。これをフルに利用して「作曲家S」を自己プロデュースしよう、と思い立ったことになる。

そして、テレビなどで「耳の聞こえない天才作曲家」を演じるポーズをとるようになる。その頃米タイムズ誌が「現代のベートーヴェン」と評したのは「耳が聞こえないのに交響曲を書いた」という点について言及したにすぎないと思うのだが、それを「ベートーヴェンに匹敵する交響曲を書いた」と意図的に誤読したのは(販売促進と言うより)ブラームスを持ち上げるためにバッハ・ベートーヴェンと並べて三大Bとした故事と同じ宣伝用のキャッチコピーにすぎない。

ちなみに、この頃のCD会社の姿勢を「売らんかな」の商法と批判するむきもあるが、トンでもない。現代のオーケストラ新作を録音するというのは莫大な費用がかかるうえ(前にも書いたように)どんなに売れてもせいぜい数千枚。元を取るどころか「どこまで赤字を食い止めるか」という苦心惨憺の方が大きいほどで、これはもう「とにかく新しい作品を多くの人に聞いてもらいたい」という熱意以外に何もない。「録音することになった」と聞いたときは、その「英断」に吃驚したくらいである。

これで7〜8千枚くらいCDが売れて「クラシック界で話題になりました」で済んでいればよかったのだが、そのあと広島の被爆者や東日本大震災の被害者の方々に絡んで「創作プロデュース」を始めたのは明らかにやり過ぎだった。おかげで新人の新作をバックアップするべく協力した善意の音楽関係者たちまで共犯者扱いにされる弊害を生み出し、現在の大騒動に繋がっている。その点については社会的制裁を受けてしかるべき「罪」であり、これに関しては同情の余地はない。

一方、真の作曲者N氏が出て来たことで、「じゃあNサンの作曲ということでいい」かというと話はそう簡単ではない。上記のビートルズとG.マーティンの例でも分かるけれど、ビートルズの解散後にG.マーティンが一人で傑作を残した形跡はない。残念ながら発注ナシの自分の作品で「バッハで始まってショパンに接ぎ木するピアノ曲」など、音大で正式に作曲を勉強したN氏には「理性が邪魔して(恥ずかしくて)」絶対書けないはずだ。S氏N氏どちらも「一人では絶対に出来なかったこと」が奇跡的なバランスで実を結んだ。それがあの《交響曲》だったわけだ。もう「二度め」はない。

サテ、こう考えてゆくと、一昨日まで「天才作曲家の書いた大傑作」今は「詐欺師コンビが書いた大駄作」と(リーマンショックみたいな)評価乱高下の渦中にある可哀想な《交響曲》だが、音楽的にはきわめて示唆に富んだ、学ぶべき点の多い問題作であることに気付く。(私個人も、売れていないときは「推薦」までして褒めたが、売れてからは全く興味を失った。でも、また今回どん底に落ちてから興味を持ち始めた。世間や常識と違う処に興味を持つのは独学異端の血のなせるわざだろうか(笑)

Shostako と随分話が長くなったが、「S氏ショック」からまだ2日。「だまされた」と悩むのも「ショックだ」と混乱するのも「ほらみろ。最初から怪しいと思ってたんだ」と自分の見識を誇るのも「褒めた奴も謝れ」と勢いに乗って罵倒するのも、ここしばらくは仕方ない。でも、客観的かつ冷静に解読してみると、この騒動、いろいろ興味深いモノを含んでいる。不謹慎だが、作曲家に関するスキャンダルとしては「ショスタコーヴィチの証言」(1979年)以来の面白さだ。ドキュメンタリー作家や音楽ライターの皆さん、要チェックである。

2014年2月 6日 (木)

続S氏騒動

Piano_cut001 音楽は、現実を知ってしまうと身もフタもないところがある。可愛いアイドルが女の子の気持ちを歌って大ヒットしてる歌もホントは詞も曲も大人のオトコが書いてるのだし、女心を切々と歌って万人の涙を振り絞る演歌も作っているのは実はオジサンである。寅さんのセリフじゃないが「それを言っちゃあお仕舞いよ」である。

もともと音楽も文学もテレビや映画も、その「感動」というのは作者の「計算」と「技」の成せる技。「寅さん」も「シャーロックホームズ」も「ハリーポッター」も(言ってしまえば)全て「虚構」だ。でも「真実」より巨大な存在感を持っている。芸術の中では「虚構」も「真実」(もっと言ってしまえば「虚構」こそ「真実」)。今回の件も、そのあたりを踏まえて、音楽的にNGな点とOKな点、社会的にNGな点とOKな点をそれぞれちゃんと分離して考えるべきだろう。

私が佐村河内守氏の存在を知ったのは、まだ彼が「独学で難聴の(無名の)作曲家」にすぎなかった5〜6年前。しかし、その頃から熱狂的な信者が大勢付いていて、ネットでしきりに「サムラゴウチこそ真の天才である。それに比べてヨシマツは…」と必ず私を引き合いに出して悪口を言われていたので(笑)名前を覚えることになった。その彼が書いた交響曲が2010年4月に東京初演されることになったと聞いて、付き合いの長いコロムビアのディレクター氏に「面白い作曲家がいるよ」と紹介し、それがきっかけで今回問題になったCDが生まれることになった。

その時は「ようやく同時代に嫉妬できる作曲家が出て来た」と喜んだ(そして、そのセリフを宣伝に使わせて下さいと言われたので応じた)のだが、それは本音。映画音楽みたいと言われようが何だろうが一般の聴衆を1時間以上釘付けにする純オーケストラ作品が生まれたのだ。さらに、普通クラシックの純音楽は「CDがものすごく売れた」と言っても数千枚なのに、彼のCDは(もちろんTV番組での大々的な紹介があったにしても)軽く万を超える勢い。おかげで嫉妬も強まったわけなのだが、売り上げが数万枚に達したあたりで、さすがに「何か裏があるの?」と担当者に聞いたことがある。その時は「確かに売れすぎですよね」と首をひねるばかりだったが、私が危惧したのは別の想像であって、こういう「オチ」があるとは思いもしなかった。

ゴーストライターとまで物々しくないにしても、共作というのはクラシック界でもよくあることだ。例の「タルカス」も原曲がキース・エマーソンでオーケストレイションが私…という共作。映画音楽などでは弟子がスコアの清書と共に曲を書くことも少なくない(そのあたりはマンガ家のアシスタントがベタ塗りや背景から時にはキャラクターの主線まで入れるのと同じだ)。だからといって「あの作品のあの部分は私のモノだ」とは主張しない。代わりに「次の仕事」をもらえる(かも知れない)というのが報酬であり、そうやって師弟関係が繋がってゆくからだ。

一方、そういう主従関係でない1対1の共作の場合は、本来ならその旨契約書を作らないとまずいのだが、作曲の世界では「書いてよ」「いいよ」だけの口約束ということが多い。そもそも映画やCDにしても作曲家の取り分はせいぜい数十万程度ということがほとんどだから、「手数料」程度の金額のやり取りさえあれば、契約書を交わしてとか、取り分を巡って裁判を…とはならない。(金額が低すぎてやっても無意味だからだ)

ところが、今回はCD18万枚、コンサートツアー全国30カ所、おまけにオリンピックで楽曲使用というレベルになってしまったわけで、これではいくら口約束で友好な関係が築かれていた相手でも、契約や取り分を巡って争いになることは想像に難くない。

今回週刊誌の記事で、彼がこの交響曲を書くに当たって影のライターに作曲注文を出した時の曲構表を見たが、これはCMや映画音楽の発注の時に書かれる(映画で言う)「絵コンテ」のようなモノ。楽想はもちろん時間配分から音量までもが細かくグラフにされていて、実に分かりやすく書かれている(これなら私でも交響曲が書けそうな気になる)。此の段階で藤子不二雄みたいに共作のペンネームを作って著作権処理をしておけば(その場合なら片方はTVに出て片方は覆面でもいい)、何の問題もなく「大ヒット交響曲」を生んだ敏腕プロデューサーとして日本の音楽史に名を残せただろうに、それをしなかった彼の目標は何だったのだろう?

Binboo 唯一今回の件で刮目すべきだと思ったのは、現代のクラシック音楽のしかも交響曲というジャンルに「売る」という攻勢を仕掛けてきた彼の・・天才性・・だ。自他共に許す交響曲狂いの私も「交響曲は売れないモノ」「交響曲作家は貧乏なモノ」と信じ込んでいて、そんなことは思い付きもしなかった。その見事な手腕だけは(皮肉でなく)評価したい。

ただし、残念ながら、彼が仕掛けた芸術上の「虚構」は、笑って済ませられないレベルに喰い込み、昨日まで「すべて天才」と最上段まで持ち上げたものを、翌日から「すべて詐欺」と全否定して奈落に突き落とすという「日本らしい」システムが発動。CDやコンサートや本の販売停止だけでなく、新聞各紙が彼の記事の記録を過去に遡って削除するという自体にまで及んでしまった。しかし、存在を抹消する…なんてどこかの時代のどこかの国みたいなことはやめて欲しい。影の作曲家も含むこの二人の希有な「才能」、なんとかならないものだろうか。

長文多謝。ついでに蛇足&老婆心ながらひとこと。今回の件、もちろん否定的肯定的いろいろな感想を持たれる方がおられると思いますが、ブログやツイッターなどで発言されるときは・・各方面から検索をかけられ読まれているということを忘れず、日本らしいシステムが発動されないようにくれぐれも使う言葉だけは慎重に。(勿論それは私自身もですが・・)

2014年2月 5日 (水)

S氏騒動

Worksw 東京に帰ってきたら佐村河内守氏騒動。

彼のここ十数年の作品にはすべてゴーストライター(名前を表に出さない実際の作者)がいる…という告白を聞いて、推理小説みたいな話だと不謹慎にも思ってしまった。確か、刑事コロンボの「奪われた旋律」は有名映画音楽作曲家の弟子が実はゴーストライターという話。古畑任三郎の最終話「ラストダンス」(犯人役:松嶋菜々子)も有名推理小説作家の双子の姉妹がゴーストライターという話だった。事件にまではなっていないが、現時点で既に彼はWikipediaで「元作曲家」扱いにされ、CDは出荷&配信停止、予定されていたコンサートも続々中止になっている。音楽界はてんやわんやである。

確かに、ポップスなど商業音楽の世界では、「作曲家」はメロディだけ書き(楽譜が書けないので鼻歌で歌うだけのヒトも多い)、それに「採譜(楽譜に書き起こす)」や「アレンジ(編曲。和音やリズムを付け、楽器で演奏できるような総譜スコアにする)」や「オーケストレイター」(オーケストラへのアレンジを行う専門家。合唱が加わる場合はコーラスの専門家というのもいる)といったプロたちが集まり「寄ってたかって」ひとつの楽曲を作り上げる。(この場合、表記されるのは作曲家と編曲者だが、作品の権利は作曲家と出版社のものというのがほとんどだ)

しかし、クラシックの純音楽では「作曲家」がメロディから構成そしてオーケストレイションまで「すべて一人でやる」のが基本。「交響曲」にゴーストライターが居た…などというのは(旧ソヴィエト時代の噂話以外は)聞いたことがない。

それでも、ジャズやロックのミュージシャンがオーケストラと共演する作品などは「オーケストレイター」が居るのが普通(ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」もそうだ)。なので、クラシック界でも「プロデューサー」みたいな人間が新曲のコンセプトを作り、メロディや素材を「雇われた作曲家」が作り、それを専門の「アレンジャー」や「オーケストレイター」が楽曲に仕上げるという作り方もあり得るのではないか?と前々から思ってきたので、そういう共同作業の結果、彼の「交響曲第1番HIROSHIMA」のような「ごく普通の聴衆の耳を飽きさせない1時間以上の純オーケストラ曲」が生まれたことは素晴らしいことだと思う。その思いは今でも変わらない。

Orchestrap_2 ただ、今回の場合は、あまりに「音楽以外の処で」話題になりすぎ売れすぎた不運というべきか・・・なにしろ「現代曲」で「交響曲」というのは売れない音楽の代名詞であり、だからこそ(その真っ只中に居る)私としては、新人作曲家の長大な力作が少しでも多くの人の耳に届くようにと推薦役を務めたほど。普通なら、隠れた作者が「私も楽曲の正当な権利が欲しい」と名乗りを上げるなら、彼にも新たなスポットをあて、以後は共作として(レノン/マッカートニーのように)連名表記にすれば良いだけの話。・・・まさか「交響曲」がここまで売れてそれがワイドショーに取り上げられるほどの問題を引き起こすとは・・当人にとってもそれこそ「想定外」というしかないだろう。

そう言えば、数日前(舘野泉さんとの対談の記事で)ミューズの神の気まぐれさと訳の分からなさについて書いたばかり。オーケストラの新作コンサートに大勢の人が押し寄せ感動するという奇跡的な状況を生んだ名作がようやく生まれたのに、その感動を否定するような不幸な方向には決して行って欲しくない。そう願うばかりである。

2014年2月 4日 (火)

節分@京都3

Kyoto204

ちょっと晴れ間が見えたので嵐山へ。昨日と打って変わって寒い・・・

2014年2月 3日 (月)

節分@京都2

Kyoto203

節分の京都、壬生寺から元祇園梛(なぎ)神社へ。

この時期は(数年前に来たときも)確か粉雪舞う「京都でも一番底冷えのする季節」。それが、今年はちょっと歩くと汗ばむような(日中は15度とか)小春日和。

しかし、明日からは冬に戻るとのこと。

Kyoto203b

2014年2月 2日 (日)

節分@京都1

Kyoto202

そうだ、京都行こう!
…と思ったらもう京都にいた・(*^^)v

ピアノの河村サンを呼び出して、吉田神社の節分祭へ。この時期の京都にしては異例の暖かさの中、赤・青・黄の鬼が境内をのし歩いていて不思議な景色。(こういう祭の露店街は、東京だと〈醤油〉の香りがするものだが、関西だと〈ソース〉の香りがして、ノスタルジーの角度が微妙に違う)

夕方、祇園の白川・辰巳神社へ。(大和大路でいきなりTVカメラ連れの市川海老蔵氏とすれ違う。何かの番組の撮影中?)。川面を歩く鷺を愛でつつ、夜は「八咫」と「コモンワンBAR」で一杯。

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