ひとまずS氏騒動
ここ数日、この騒動のあまりの興味深さについ年甲斐もなく多弁になってしまったが、隠居の侘び住まいにかくも大勢の方々にお越し頂き、感謝と共に妄言多謝。
別に誠実に対応したわけでも言い訳の必要に駆られたわけでもなく、こういう何の利益にもならず頼まれもしないことに思わず本気で首を突っ込んでしまうのは根っからの性分。その性格のおかげでS氏の件に巻き込まれたと言えば言えるわけだが、私が推薦してCDが18万枚売れるなら、シベリウス師匠の後期の作品などをもっと聴いて欲しい。(おッと、そんなことを言うとそれが目的のステマと思われるか)
そもそもこういう泥沼っぽい争いの渦中に「仲裁」に入ると、双方から「お前はどっちの味方なんだ!」と攻撃され要らぬトバッチリを食うので、ほとぼりが冷めるまで傍観しているのが利口なのだが、やはり私は交響曲莫迦の血が脈々と流れているのか隠居の道楽なのか、可愛い「交響曲」が俎上に載って棒で突かれ虐められていると聞くと居ても立ってもいられず「まあまあ、助さんも格さんも落ち着いて」と思わず間に入ってしまった次第。
おかげで、いつもは私のことを知っている数名が訪れるだけのこのブログも、全く知らない方々がいきなりリンク先からどこでもドアで大勢乱入されるようになり、ちょっと気を遣ってしまった。言葉遣いだけは注意したつもりだが(でも思わず「ぶん殴る」なんて書いてしまったけれど。あれはS氏が結果的に大事な人を傷つけたから)、それでも「あ、そこにそう反応するか!」という思いもかけない部分へのツッコミはなかなか新鮮。肯定される方、否定される方、挑発なさる方、誤読される方、錯乱されている方、完全に誤解されている方、通りすがりに落書きされる方、なかなか深い洞察力を持っておられる方、いろいろな花が咲き乱れて花壇のよう。どれがナンバーワンというわけではなく、みんなオンリーワンである。・_(_^_)_
ただ、面白がっていられないのはS/Nお二人の今後のこと。今は「叩くだけ叩く」流れだが、しばらくたって冷静に考えたら「そこまでやらなくても良かったのでは」と思うことになりそうなのは、ちょっと前までの「持ち上げるだけ持ち上げる」流れの中で感じたことと同じ危惧感。しかも今回の件、まだ少なくとももう「一展開」つまりS氏側のリアクションがあるわけで、現状180度反転のこの展開がさらに加速するのか?あるいは違った揺り戻しがあるのか?…と目が放せない。とは言え、別に私はこの騒動を追跡するレポーターではないので、どなたか客観的かつ冷静な視点で是非この騒動の顛末を後世に伝えていただければ幸いである。
追記:コメントは肯定否定挑発誤読錯乱いずれも歓迎ですが、汚い言葉や泥酔されている方の言辞だけはMACの迷惑コメントフィルターで自動的に削除されることがあります。ご容赦下さい。
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おあとがよろしいようで
投稿: レーズンサンド | 2014年2月 9日 (日) 12:50
正〜続〜また〜しつこく〜ひとまず
で S氏騒動 前編5章完結
中編・後編を期待!
投稿: semi | 2014年2月 9日 (日) 12:56
吉松隆先生、あなたはこの問題の仲裁者になる資格はないでしょう?
佐村河内守の曲(実際は新垣隆の曲)を推薦したのはあなたなのですから。
なぜ他人事みたいに言えるのか私には理解できない。
投稿: 音楽に詳しくない者 | 2014年2月 9日 (日) 13:12
どこでどういう話を聴いてこういう的はずれなことを言っているのか理解できませんが「音楽に詳しくない者」と自称されているのですから、詳しくないのでしょうね。
投稿: らら | 2014年2月 9日 (日) 13:18
例の週刊誌ですよ
投稿: 文春 | 2014年2月 9日 (日) 13:49
僕もこの件に関しては
推薦をした吉松さんや三枝さんの責任を問うのは相当おかしいと思いますよ。
一番非があるのは客観的に言ってS氏本人と直に会っているマスメディア、彼を番組の素材としてあつかったテレビ番組の制作スタッフ、それを何の疑問を持たずに
放送したテレビ局だと思います。
やはりお二人ともにS氏に直に会っている節はないですね。
だったらすぐおかしいと気がついたはず。
僕はこの10年ほど家にテレビがなかったので全く彼に関する番組を見ることはありませんでしたがネットで又聞きするような
二次、三次情報しか見てませんがありゃあまりにもひどすぎませんかね。
吉松さんもおっしゃってましたがあれはやり過ぎで暴走も良いところです。
ああまでS氏の自己申告を簡単に信じ込むなんてあれでメディアで働く資格あるんでしょうか。
マスメディアの偏向報道、報道の嘘を端的に示すものでこの件以外にも彼らを疑って掛かった方が良いと思います。
しかしそれにしてもゲーム音楽を書いていた時代によくソフト開発の会社が気がつかなかったものだとそれにも驚きますが。
ゲーム音楽を書いている作曲家名の中にはかなり才能のある人が80年代から90年代にかけて大勢生まれてますから。
それもバイオハザード、鬼武者と言ったらかなりの映画で言うところのブロックバスターです。
しかし今思うとN氏というのはその筋のばりばりエリートだそうで、
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39905
吉松さんや三枝さんが内容にある程度感心させたのもこの記事なんかを見ると宜なるかなという感じがします。
嘘は嘘でもかなり高度に良くできた嘘だったらしい。
もし俺みたいな市井の音楽愛好家がクラシックの大家の曲を模倣してDTMなんかで
ならした曲をプロに聴かせてもこんなことは起こりえなかったでしょう。
しかしよりによってここまで高度なクラシックの専門家が代筆という形で力を貸すというのは非常に俺のようなファンからすると残念です。
S氏の嘘より正直なところN氏の手に染めてきたことの方に大きなショックを受けました。
おそらくこの人も音楽の世界から抹殺されるでしょう。ナチスドイツに加担した作曲家が程度の差こそあれほとんどその音楽を演奏されないように。ブルッフでしたかね。
俺は吉松さんの経歴を知っていたおかげで大して傷つかずに済んでますし、テレビをろくに見ないことが幸いしましたが、正直なところ音楽にこれほど人を傷つける力があるということに驚いています。
今まで何の疑問も持たず音楽は気持ちを慰めたり、気分を高揚させたり、瞑想的な気分を味わうために聴くものと思い込んでいましたが、音楽のマイナスの力というのを生々しく思い知らされました。
音楽というものにとって何か一つの転機になるような事件のような気がしますね。
またやはり現代の音楽、徴収と乖離したコンテンポラリーミュージックというものの抱える問題を考えさせられるような気もします。
N氏も現代の作曲家でありながらやはり、自分の音楽を大勢の聴衆に
聴いてもらえるということにあらがいがたい魅力を感じていたのではないかと思います。
マーラーの簡単なコピーで芸術的価値はないというのはどちらかというと自分の生きている現代音楽の楽団に対する、私には裏切りの意志はないというポーズをとっているように邪推すると見える。
投稿: takashiatota | 2014年2月 9日 (日) 13:54
精神病質体質(サイコパス)の男(佐村河内)とそれに依存している妻による詐欺です。たしかに佐村河内が発注しなければ存在しなかった作品だが、断じて新垣氏と佐村河内との共同作品ではない。そこだけは間違えないように。
投稿: toori | 2014年2月 9日 (日) 13:57
すべての聴き手を巻き込む魅力に富むと同時に見事に設計された傑作だと確信する。
息の長さ、規模の大きさ、音楽の求心力などを含めて、日本人が書いた最高の交響曲のひとつだろう。
誰が書いた言葉でしたっけ?
手のひら返しがたいへんお上手ですね。
投稿: いも | 2014年2月 9日 (日) 13:57
いもさん。逆じゃないですか。
その過去の言辞をひるがえすことなく
この逆風の中で可愛い交響曲をかばおうとしている。
そのブレない態度に敬服します。
投稿: semi | 2014年2月 9日 (日) 14:32
そうですよね。
実際、しろうとの音楽ファンを18万人も・仕掛けはあったものの魅了して、長い時間なのに聞かせてしまう構成力を持ち、皮肉なことに日本で最も有名な交響曲に・最高かどうかは別としてなったわけですから、今読むと・なんか複雑な気持ちながら・目の付けどころの見事さを感じます。
投稿: ドミトリー | 2014年2月 9日 (日) 14:44
「資格」「責任」「サイコパス」「手のひら返し」……、あまりにも素直に反応するみなさんの純粋さが、もはや羨ましい。そもそも現実などというものは全て、思い込みとフィクションではないでしょうか? だからこそ、現実と幻想の境界線上から発せられる吉松さんの言葉には、みなさんの感情が呼応してしまうんでしょうね。
投稿: アンダーバー | 2014年2月 9日 (日) 20:41
正直に「だまされました。すみません。」となぜ言えない・・・。屁理屈こねることは文化人の権利とか思ってないでしょうね?
吉松さん・・「息抜き」に書かれたN氏の作品に、あなたの作品は完全に負けてます。「俺には才能がないのだ、やはりきちんと音大に行ったやつにはかなわない」と、あなた自身が今感じてるはずです。いいわけは無用。もう引退してください。
投稿: toori | 2014年2月 9日 (日) 21:58
tppriさん
吉松氏は昔からブログのコメントに一切返信しないスタンスの方ですよ。
「作曲者名がSでなくNだった」てのは当時に誰も知りようのない事実。
なら「謝るべき」とは「駄作を傑作と評価したこと」に対してでしょうか。
では駄作という根拠は?
N氏本人が「息抜きに書いた」と言ったから?
すると、徹夜しててふと思いつき書き上げたハチャトゥイアンの剣の舞は駄作?
わずか5分で思いついたメロディの、すぎやまこういちのドラゴンクエストの序曲は?
じゃあ逆に20年かけて構想したブラームスの1番は、かけた時間が長いから傑作?
そもそも音楽の勝ち負けって?
ブラームス>チャイコフスキー なんてのも、聞く人どころか国によって変わる話。
それこそ好き嫌いの話でしかないですし。
まあ吉松さんが過去に「これは耳の聞こえぬ絶望を味わった者にしか書けない作品」とか評してたのなら流石にダサいですが、そんな評価はしてないですし。
投稿: Anom | 2014年2月 9日 (日) 22:27
そもそも「曲を評価する能力」と「曲を作る能力」は関係ない話。
「周りが傑作とする曲が俺は好きになれぬ、なら俺は俺の信じる曲を書く」というタイプすらいるわけですし。
むしろCDが出る前の時点で氏は『…辛らつな批評家なら「ここはチャイコフスキー」「ここはマーラー」と全編にわたる模倣の痕跡をピックアップすることだろう』とも述べており、全編にわたり過去の作曲家を模倣したというこの曲の本質をまさに言い当てている!
投稿: あしか | 2014年2月 9日 (日) 22:42
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140209-00032494/
〈 情報を、まことしやかなものするために、お墨つきを与えた、音楽関係者の罪は、重いと思います。
クラシックのメガヒットと言われているそうですが、クラシックは、何百年も前から、時を超え、国を超え、人々に広がったからこそ、古典と呼ばれるているのだと思います。じわり、じわりと、歴史の中に浸透しているからこそ、人々が自らの存在の意義を振り返る礎として、愛され続けてきたのだと思います。
何万枚の売り上げといった今日的な文句も、その歴史を前にすると、あまりにも表層的なものに思えます。いにしえの人々の魂にじっと耳を傾けながら、今に生き、未来を展望するのが、音楽家の役目だとすると、今回の出来事は、その根元に水がいかなくなったような状態といえばいいのでしょうか。自ら招いたクラシックの死ですね。 〉
指揮者大野和士さんによる警告。田部京子さんも、大友直人さんも、大谷康子さんも、そして吉松さんも、これは聴かないわけにはいかないと思います。
ここはしっかり私たち音楽愛好家と共に、猛省すべきかと。
しかし、それでも気になるのは、新垣さんほどの方がこの「共犯」関係には一抹の喜びを感じていたということ。
それから、大野さんのコメントもおそらく100パーセント真実ではない。現代音楽に精通している作曲家なら、「あの程度のレヴェルの曲を書ける」というのは本当だろうが、「大多数のクラシックファンを唸らせる」ことができたかどうかは疑わしい。どれほど、私たちの文化が腐敗しており、未熟であろうとも、ここには何か割り切れないものがあると思います。
そして、作曲家としての芸術性と大衆性は必ずしもイコールではない。両方を兼ね備えた作曲家として武満徹を挙げるのは誰でも賛同するだろうと思います。
投稿: グレン | 2014年2月 9日 (日) 23:46
自分も含めて匿名なら何とでも書けるネットの中で、堂々と嘘偽りないご自分の意見をおっしゃられる吉松さんは、やはり本物だと確信致しました。
色んな方からのコメントを読んで、独学でよくここまで来られたなぁと改めて感心致しました。無名の作曲家じゃこうはいきません。
これまでも無数の他人のジェラシーが襲いかかってきたことだと思います。
誰を推薦したからどうのこうのと、まるで自分の才能の無さと嫉妬心をアピールしているかのようなコメントを見て虚しい気持ちになります。
一般のクラシックファンをバカにするのではなく、どうぞ味方につけるような音楽もたまには書いて下さい。
そんな現代音楽があまりにも少ないから、あなたたちが見下している例の交響曲が目立ったんですよ。
推薦したとかしないとかはもういいですよ。時間がもったいないです。
そして吉松さんの世界観をこれからも堪能し続けます。
あのような音楽たちを生み出して戴いて、どうもありがとうございます。
投稿: isasaka | 2014年2月10日 (月) 00:43
お願いします。もう吉松先生を責めるのはやめてください。涙が出そうです。
吉松先生は最初に
> 当の佐村河内氏は「同情されて自分の音楽が聴かれるのはイヤだ」と書いているが、この書を読んで彼の音楽を公平に聴くことはもはや不可能だろう。それに、表紙にデザインされたスコアのページを見ただけで想像できる晦渋で巨大な交響曲を「聴いてみよう」という人間が現れるとしたら、「音が聴こえない人間が、音でどこまでの構築物を作れるか」という興味が重要なファクターになるはず。それは決して悪いことではない。
と言ってます。もうこれが全てです。あとは私たちの鑑識眼の範疇だと思うんです。
吉松先生の曲をもう一度聴いて見ましょう。それからHIROSHIMAを聴いてみてください。歴然としているでしょう?言葉なんか捕まえて批判する意味がないくらいです。そこから判断すべきだと思うんです。
私も、音大の学者たちや批評家がHIROSHIMAを天才的な音楽と批評したのは罪が重いと思います。彼らの言質を読み返したり観返したりしましたが、はっきりと音楽が天才的だと言ってます。恍惚とした指揮者に至るまであそこまで音楽を褒め称えたら、音楽史1000年上の古今東西を知り尽くしていない凡人が熱狂してしまうのは当たり前じゃないですか。
こうなりゃ、どう転んだって新垣隆氏の音楽を天才扱いしてくれなきゃ困ります。だって一音符も無駄のない、全ての交響曲の中で最もTRAGICALな音なんですから。なにしろ批評家の純然たる鑑賞体験においてはベートーヴェンやチャイコフスキー、マラー、ショスタコーヴィッチを凌ぐ悲劇を劇的に生成して止まない、そういった効用があるんですから。
しかし吉松先生は全くそういったことを言ってないんです。しかも作曲家としての仕事をみれば、もう明らかに言ってません。全然言ってません。先生の曲を聴けば私たちの心がそう答えるはずです。人間吉松隆がいかに嫉妬しようとも、答えはリスナーの心にはっきりと出てきたはずです。どこでもドアを使って入ってきた人で、まだ聴いてない人はまず手に入るものから聴いてみてください。
投稿: Chikuzen | 2014年2月10日 (月) 01:30
連日とても楽しく読ませていただきました。個人的な事を言わせてもらうと、僕は断然(交響曲そのものは)擁護派です。かなり良い曲じゃないですか。そりゃベートーヴェンやマーラー以上だなんては思いませんが、「日本人が書いた最高の交響曲のひとつだろう」って言葉は本当だと思いますよ。
「現代典礼」は吉松隆の交響曲にだって劣っているとは思わない。
でもHIROSHIMAってタイトルは合ってなかったですね。曲のイメージとちょっと違うなと思ってました。現代典礼だとピッタリ!って腑に落ちました。
投稿: みっくん | 2014年2月10日 (月) 03:29
他のコメントの方が紹介された大野和士氏の話を読みましたが、これがケリでしょうね。世界の眼、常識的な音楽家の眼を示した物で、まさにご印籠。
投稿: まるこめ | 2014年2月10日 (月) 13:16
「延々と圧倒的な音響の洪水が続く大曲だが、すべての聴き手を巻き込む魅力に富むと同時に見事に設計された傑作だと確信する。」
「息の長さ、規模の大きさ、音楽の求心力などを含めて、日本人が書いた最高の交響曲のひとつだろう。」
「こういう才能が、現代音楽の傾向に呆れてクラシック音楽界を見限ってしまったのが20世紀最大の不幸」
「ようやく同時代に嫉妬できる作曲家が出て来た」
・・・雰囲気に酔いしれた熱狂的信者もようやく目が覚めたようですね。
でも、当時から「裏があると思っていた」とか「危惧していた」など、後だしジャンケンで保身をするのは恥の上塗りですので、ひかえた方がよかったような気がします。
加えて「仲裁者」を名乗りにいたっては、私は「手のひら返し」だと感じましたし、友人は「オイオイ、何言ってるの?この人は妄言癖?人格破綻者?」と言っていました。
まあ、保身するのもたいへんですね。同情します。
投稿: いも | 2014年2月10日 (月) 15:09
大野和士氏のコメントが「正解答」。
これ以上の醜態は見たくない。御託御免。
投降者歓迎、ノーサイド。
投稿: レクイエム | 2014年2月10日 (月) 15:23
いや、O野さんのコメントて高邁なのはいいとして
はるか外国の高みから下々日本を冷たく見下す視線が
すごく気になりましたけど。。。
投稿: 得てる南無 | 2014年2月10日 (月) 22:57
大野和士さんのコメント私もおかしいと思いました。
佐村河内作品を少し聴いたけど、すごく自己愛の強いヘンなヤツだからと、聴くのをやめた
というレベルで「NG」を出すのは
耳が聞こえないんだってね、じゃあほめておくよ
というレベルで「OK」を出すのと同じお粗末さじゃないんでしょうか。
それに完全な「後出しじゃんけん」ですし
投稿: かぼちゃ | 2014年2月10日 (月) 23:19
今回の件は音楽についていろいろと考えされられました。
音楽はジャンルを問わず聴きますが、クラシックはたまに聞くぐらいで、HIROSHIMAも聞いていませんが評論家の方がゴースト公表の後で音楽そのものを否定されるのは、その交響曲を一生懸命に演奏した方や曲を聴いて心を動かされた方が気の毒だと思いました。
今回の騒動で、発売元は発売停止にしているのに、今回の件が広告になって売れ出したとか。
自分の周りでも聞いてみたいという人が結構います。芸術性と大衆性の問題をまた考えさせられます。
新垣氏は佐村河内氏を通して、芸術性と大衆性をつなげる可能性を
無意識に感じて、18年間もゴーストをしてしまったのでしょうか。
投稿: maki | 2014年2月11日 (火) 13:29
「後だしじゃんけん」卑怯、と言うのは幼稚だということを言っておこう。もう少しましな文言考えたら。
そういう幼稚な思考だから…って思えてくる。
投稿: Non | 2014年2月15日 (土) 00:22
これまで、比喩的にはブル7の第2楽章コーダなんかにも涙が出たが、本当に涙が出たのは、清張原作映画『砂の器』の響きと、しがない親父の葬儀で視界をしたパートのおばさんの慣れたナレーション「命はかないトンボの如く云々」を乗せた『赤とんぼ』のメロディー。何十万人を泣かす“効用”ある「音楽」とクラシックというコードでの価値判断は別物。「吉松」さんのひいきがひばりかお千代さんでも構わない。「未完成」とか「運命」も作者の意図したネーミングではないのと同じくヒロシマでもなんでも売るためには許される。民事的な問題と音楽論を分けて議論すると一つの解決が見出せるかもしれない。トップシェフが女房の糠漬けに降参しても別におかしくない。
投稿: 岩内 省 | 2014年2月27日 (木) 17:11
山下清の絵は山下清が描いたからこそ大きな価値があるのであって、これが山下の画風に極めて精緻に似せて描かれた贋作であったなら有難味は限りなくゼロになりますよね。それでも贋作にも味わいがあるという人もいる。本件もそんな感じですかね。
事件後もこの交響曲の味わいを虚心坦懐に聴いてみたい(私のようにアマオケでぜひ一度演奏してみたい)、この交響曲のCDやDVDが欲しいという人という人は大勢いる。
曲を抹殺するのではなく、楽譜やソフトを正しい作曲家名に訂正の上で販売再開し、今後の印税や販売収益を、罪滅ぼしのために、被爆や震災で苦しまれている方々や福祉への寄付に全額充てるという案は如何でしょう?
投稿: 虹色LED | 2014年2月27日 (木) 21:27