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2014年2月 5日 (水)

S氏騒動

Worksw 東京に帰ってきたら佐村河内守氏騒動。

彼のここ十数年の作品にはすべてゴーストライター(名前を表に出さない実際の作者)がいる…という告白を聞いて、推理小説みたいな話だと不謹慎にも思ってしまった。確か、刑事コロンボの「奪われた旋律」は有名映画音楽作曲家の弟子が実はゴーストライターという話。古畑任三郎の最終話「ラストダンス」(犯人役:松嶋菜々子)も有名推理小説作家の双子の姉妹がゴーストライターという話だった。事件にまではなっていないが、現時点で既に彼はWikipediaで「元作曲家」扱いにされ、CDは出荷&配信停止、予定されていたコンサートも続々中止になっている。音楽界はてんやわんやである。

確かに、ポップスなど商業音楽の世界では、「作曲家」はメロディだけ書き(楽譜が書けないので鼻歌で歌うだけのヒトも多い)、それに「採譜(楽譜に書き起こす)」や「アレンジ(編曲。和音やリズムを付け、楽器で演奏できるような総譜スコアにする)」や「オーケストレイター」(オーケストラへのアレンジを行う専門家。合唱が加わる場合はコーラスの専門家というのもいる)といったプロたちが集まり「寄ってたかって」ひとつの楽曲を作り上げる。(この場合、表記されるのは作曲家と編曲者だが、作品の権利は作曲家と出版社のものというのがほとんどだ)

しかし、クラシックの純音楽では「作曲家」がメロディから構成そしてオーケストレイションまで「すべて一人でやる」のが基本。「交響曲」にゴーストライターが居た…などというのは(旧ソヴィエト時代の噂話以外は)聞いたことがない。

それでも、ジャズやロックのミュージシャンがオーケストラと共演する作品などは「オーケストレイター」が居るのが普通(ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」もそうだ)。なので、クラシック界でも「プロデューサー」みたいな人間が新曲のコンセプトを作り、メロディや素材を「雇われた作曲家」が作り、それを専門の「アレンジャー」や「オーケストレイター」が楽曲に仕上げるという作り方もあり得るのではないか?と前々から思ってきたので、そういう共同作業の結果、彼の「交響曲第1番HIROSHIMA」のような「ごく普通の聴衆の耳を飽きさせない1時間以上の純オーケストラ曲」が生まれたことは素晴らしいことだと思う。その思いは今でも変わらない。

Orchestrap_2 ただ、今回の場合は、あまりに「音楽以外の処で」話題になりすぎ売れすぎた不運というべきか・・・なにしろ「現代曲」で「交響曲」というのは売れない音楽の代名詞であり、だからこそ(その真っ只中に居る)私としては、新人作曲家の長大な力作が少しでも多くの人の耳に届くようにと推薦役を務めたほど。普通なら、隠れた作者が「私も楽曲の正当な権利が欲しい」と名乗りを上げるなら、彼にも新たなスポットをあて、以後は共作として(レノン/マッカートニーのように)連名表記にすれば良いだけの話。・・・まさか「交響曲」がここまで売れてそれがワイドショーに取り上げられるほどの問題を引き起こすとは・・当人にとってもそれこそ「想定外」というしかないだろう。

そう言えば、数日前(舘野泉さんとの対談の記事で)ミューズの神の気まぐれさと訳の分からなさについて書いたばかり。オーケストラの新作コンサートに大勢の人が押し寄せ感動するという奇跡的な状況を生んだ名作がようやく生まれたのに、その感動を否定するような不幸な方向には決して行って欲しくない。そう願うばかりである。

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音楽考」カテゴリの記事

コメント

これ、一時問題になった「食品偽装」の話に似てますよね。
例え「おいしい」と思った気持ちが真実でも「だまされた」という思いは消せないという。

今回の事件で「独学の交響曲作家」全般がペテン師と見なされるようになるのではないか、という危惧を感じます。

それにしても。。。。彼の作品を持ち上げて「天才だ!それに比べてヨシマツなんか(失礼!私が言ったんじゃありませんから)」と言っていた輩が手のひらを返したように「それみたことか!」「やっぱり詐欺師だ!インチキだ!」と騒ぎ立てる今後のブザマな展開が目に見えるようで、今からうんざりです。

今回の一件にしろAKB商法にしろ、音楽関係者と聴衆の堕落、ひいては芸術の黄昏ではないかという危惧感を覚えます。
「大半の人間は音楽の良し悪しなんぞわからない。音楽に金も出さない。音楽を売りたきゃ感動エピソードやブランドイメージを抱き合わせろ。」
こんな音楽関係者の本音とそれに踊らされる聴衆という構図を垣間見る思いです。
安易な金儲けに走らなくても、もっと情操教育(もはや死語ですね笑)に力を入れれば、良い音楽はちゃんと売れるようになるはずだ!とこんな風に思うのは単なる綺麗事なのでしょうか。

>オーケストラの新作コンサートに大勢の人が押し寄せ感動するという奇跡的な状況を生んだ名作がようやく生まれたのに

彼の曲は名作なのでしょうか?また、お客は純粋に曲の内容に感動したのでしょうか?

交響曲第1番が話題になり始めた頃聞いてみて、あまりのあざとさにウンザリしたのに、今聴き直して見るとけっこういい作品に思えます。作品に罪はないとか擁護したい気持ちになるのは不思議ですね。

交響曲など、「お金にならない」曲をわざわざゴーストライターに書かせたのが不思議です。
たまたま東響が演奏して、たまたまCD化されて、たまたまメディアに取り上げられたから儲かったと思いますが。
昨年発売のピアノソナタも第一番は完成後、ずっと日の目を見ていなくて、たまたまコンサートやCD化がされただけですし。
献呈曲も多いらしいですが、無償で献呈するためにゴーストライターに依頼していたのも不思議です。


>例え「おいしい」と思った気持ちが真実でも「だまされた」という思いは消せない
 私は《「おいしい」と思った気持ちが真実》という部分を最重要視したいと思います。

>「独学の交響曲作家」全般がペテン師と見なされるようになるのではないか
 吉松さんがペテン師と見なされなければ大丈夫だと思います。

>彼の曲は名作なのでしょうか?また、お客は純粋に曲の内容に感動したのでしょうか?
 名作かどうかは視点(何をもって名作とするか)により人それぞれの判断になると思います。例えば吉松さんは『「交響曲第1番HIROSHIMA」のような「ごく普通の聴衆の耳を飽きさせない1時間以上の純オーケストラ曲」が生まれたことは素晴らしいことだと思う。その思いは今でも変わらない。』とおっしゃっています。名作か否かは明言しておられませんが、文脈からは「名作である」と解釈するのが自然と思います。
 ただ、おっしゃるとおり、(おそらくは多くの)お客は純粋に曲の内容に感動したのかという疑問については私も首肯します。人間の意識(感情もむろん意識です)は、さまざまな付加情報によりバイアスがかかるものです。たとえばシューベルトの歌曲は(たぶん)名作と捉えられているでしょうけど、もしも彼が長寿を全うしていたらどうか…。早逝ゆえの高評価かもしれません。
 佐村河内氏の場合は主に身体的ハンディがそれに当たるでしょう、ご本人が望まなかったとはいえNHKでドキュメンタリーとして放送されてしまえば言い訳はできなくなってしまいます。
 しかし一方ではシューベルトが早逝したかどうかにかかわらず、心動かされる名作だという人もいるでしょう。そうした後者のケースでは、佐村河内氏の曲(とされるもの)はやはり名作なわけです。
>「大半の人間は音楽の良し悪しなんぞわからない。音楽に金も出さない。音楽を売りたきゃ感動エピソードやブランドイメージを抱き合わせろ。」
ということになってしまったのが不運といえば不運かもしれません。私の妻は「ずっと黙ってても良かったのに」と申しておりますが、これほど売れなければ良心の呵責に悩むこともなかったのでは、とは確かに思います。
 と、いうわけで。一連の感動作は、佐村河内守作ではないかもしれないとはいえ、新垣隆との共作による名曲として、私は捉え続けることができるつもりです。(ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」もグローフェ作曲ではなくガーシュインとグローフェの共作だと思っているのと同様に)

この曲は18万枚も売れたということですが、この現代日本で作られた70分もの大曲を買った人みんなが聞き惚れたのかは全くの謎です。
が、全くの駄作ならいくら全聾の作曲家の曲という「エピソード」付きだろうと売れないはずなので、今回の騒動で逆にこの交響曲に興味を持ちました。
しかし今回の騒動でCDも回収されてしまうようなので、手に入るかどうか…

まず吉松作品には楽しませてもらっていることは申し上げます。

自分は当初からこのS氏作品はまったくいいとは思いませんでした。なぜこれほど“売れる”のか疑問でした。

テレビなどのメディアによって扇情されたのが大きな要因であることは間違いないでしょうが、かりに作品だけがあったとしたらどれだけ“売れる”のでしょうか。日ごろ、管弦楽作品に親しむ人にはどれだけ支持されるのでしょうか。

何人かのプロの音楽関係者が高い評価をしていますが、〈音大非常勤講師の作品〉として耳に入ったら、変わりなく評価されていたのでしょうか。

ある音楽学者はたいへん絶賛されていましたが、とうぜん作品そのものに対しては今後も変わりなく評価されるのでしょうか。

自分には、“周辺”にもかなり問題があったように思えてなりません。だれか「王様ははだかですよ」とは言えなかったのでしょうか。

信じられない!わずか数日でCDが手に入らなくなっている!!
3枚目のアルバム、買っておけばよかった!!
作者なんか誰でもいいから、聴きたい!

うわあ、恥ずかしい…

広島の事を思って階他局でもなければ(着想も作曲も全く無関係)、あんな「中盤盛り上がって、ラストはモーツァルト風」程度のおままごと発注書をもって「共作」なんて…
ハンディキャップに盲目的に感動し「逆差別」してきた愚者達は、いいかげん潔く恥を知るべき。

どこまで落ちたら、自分達がもう新車だったと理解できるのか、もしくは認められるのか。
今後はそこも焦点。

なにか、大変滑稽なような。

本当の作曲者の新垣氏は「あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる、どうせ売れるわけはない」と考えていたそうです。

激賞した手前、「でも、感動したには違いないから、やっぱり素晴らしい曲だ」と強弁したくなるのはわかりますが、それをやっちゃうとただの自己保身の言い訳。
二度と「マトモ」に音楽と向かい合う事が出来なくなるような気がします。

「反省する」でいいんじゃないでしょうか。「あぁ、自分は未熟で曲そのものを聴いていなかったなぁ。付随する物語に陶酔していたんだなぁ」と反省すればいいんじゃないでしょうか。

「反省する」って駄目な人間のする行為なんでしょうか?逆のような気がしますが。

(そういえば、定年前にはそれなりの社会的地位にあった老人は、振り込めサギにあったと発覚した後も、頑として自分が騙されたと認めない場合があるそうです。挙句の果てに「あれは判っていてわざわざ恵んでやったんだ!」。プライドが異常に高いと何度でも騙されちゃうみたいです)

自分も趣味で長いこと作曲(ポップスですが)をしており、身内にも音楽関係が多いことから、この件に関して色々なサイトで様々なコメントを見てきましたが、こちらの皆様のコメント一つ一つが的を射ていて感服致しました。

佐村河内氏の動機が金儲けなのか名誉欲なのか、はたまた形はどうあれ純粋に音楽を提供したかったのか、それはわかりませんが、ここまで大きく扱われてしまうのは吉松様の仰る通り「売れすぎた不運」なのでしょうね。

一部の方が仰っている「楽曲に罪はない」というのは、まさにその通りだと思います。
個人的には特に好きにならなかったのでCD購入や演奏鑑賞等はしておりませんが。

売れてるから買う、皆が良いと言うから好き、という音楽の聴き方をされる方が多いのは今更仕方のないことですし。

歌もの以外での大ヒットとして比較的記憶に新しい(?)坂本龍一氏のenergy flowが大好きですが、もし作曲者が違っていたと聞いても怒りはしないだろうと思います。
逆に「誰の作曲?他の曲も聴いてみたい!」となるんだろうな、と。

佐村河内氏のCDを購入し愛聴していた多くの方々は、作曲者が違うという事実で音楽の聴こえ方や感じ方が変わってしまうものなのでしょうか?
そしてその聴こえ方の違いから怒りの感情が湧いてくるのでしょうか?
新垣氏が素晴らしい曲を作曲・発表したら、そのCDは購入するのでしょうか?

昨今の日本の音楽業界は付加価値を付けないと売れないのだそうですが、いっそのこと商業音楽は規模縮小して、それ自体に価値のある音楽を残すことに重きをおいてほしいものです。

長文失礼致しました。


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