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2014年2月 8日 (土)

しつこくS氏騒動・交響曲編

28 S氏の《交響曲第1番》を最初に耳にしたのは、初演(2008年広島)の時の様子を映したYouTubeでの録画だ。この時は、G8議長サミット記念コンサートという名目で《交響曲》の1・3楽章が披露された(さすがに全曲では「長すぎる」と主催者側が判断したのだろう。それでもたっぷり40分以上という大曲だ)。

その頃のS氏はWikipediaにも未記載の無名の作曲家(ゲーム音楽マニアなら鬼武者の音楽で名前くらいは知っていたのかも知れないが)。当然、会場に聴きに来ていたお客のほとんどは「広島出身の若い作曲家」というくらいの知識しかない一般の人たちだったと思う。しかし、その「誰もが初めて聴く」しかも「オーケストラだけ」の音楽が「歌も映像も何もなく」1時間もの間延々と流れるのを、ホールを埋めた聴衆は(少なくとも)飽きることなくずっと耳を傾け、曲が終わると同時に万雷の拍手を浴びせていたのである。これは(実を言うと)現代の新作オーケストラとしては希な事態であり、これだけでも充分「事件」だったわけだ。

確かにあちこちチャイコフスキーが聞こえショスタコーヴィチが混じりマーラーが鳴り響く寄せ集めの音楽と言えば言えたのだが、なぜか「なんだ、つまらない」と切り捨てて画面を切り替えることが出来ず、全曲を聴いてしまった。そして「なんなんだ?これは」と思ったのが最初の感想だった。その後、2010年に東京で全曲が演奏されたときも同じ光景が繰り広げられたという。それが今回の「伝説(事件)」の始まりである。

考えてみても、普通の人を(感動させるかどうかは別として)1時間以上じっと椅子に座ったまま飽きさせないというのは、実は大変なことである。映画でも舞台でもテレビでも学校の授業でも、人を相手にする仕事にかかわったことがある人なら身に染みてお分かりだろうが、どんなに面白いことをやっても興味を持続してくれるのはせいぜい数分。テレビでは映像があっても「15秒まで」、「音」だけの場合は「せいぜい4秒」という人すらいる。コンサートなら飽きたら帰ってしまうか、少なくとも寝てしまうし、テレビならチャンネルを替えられてしまう。

そう考えると、この曲を「色々なクラシック名曲を混ぜ合わせただけのごたまぜの作品」とか「学生レベルの稚拙なスコア」と卑しめるのは簡単だが、それでは逆にその「稚拙なスコア」で書かれた「ごたまぜの作品」が、なぜ1時間にも渡って聴衆の耳を引き付けて放さない音楽として成立したのか?そしてそれをコンサートやCDで聴くために多くの人が押し寄せたのか?ということの方に着目せざるをえなくなってしまう。

もちろん初演の段階から「私はいいと思わなかった」「いかがわしい音楽と感じた」「空虚な音楽だと思った」という批判もあった。しかし、それはワグナーやブラームスにもマーラーやショスタコーヴィチにも投げつけられた言葉であり、残念ながら「ひとつの感想」として貴重ではあるにしても決定的な否定材料にはならない。私もブラームスやシューマンなどのドイツロマン派は「苦手(あんまりいいと思わない)」だが、それは「甘い物は苦手」という嗜好と同じ。そういった「好き嫌い」の向こうにある真価(食べ物で言うなら滋養栄養)を見据えるのが文化であり「音楽を聴く」と言うことだと理解している。

もうひとつ、「楽譜も読めない男が紙ペラ一枚のプロット表を作り」「それを見た音楽大出の普通の作曲家が意味もよく分からないまま音符にした」ということも非難されがちだが、それが事実ならむしろそちらの方がはるかに音楽的に驚愕すべきことのように思う。古今東西、作曲法の勉強を極めたプロの作曲家が技術の粋を結集して創作した音楽が、聴衆の興味を5分も引きつけられない…ということがいかに多いことか。それを考えると、今回の事実を「まがいもの」とか「インチキ」と過小評価して重大なことを見落とす愚は犯したくないという意を改めて強くする。

もちろんあの「交響曲」がベートーヴェンやマーラーと比肩する物だとはいくら私でも思わない。ただ「名曲というのは名曲として生まれるのではない。名曲になるのだ」という怪しい諺(私が作ったのだがm(__)m)の通り、名曲・傑作を作るのは作曲家でも評論家でも音楽の専門家でもなく、音楽を聴く一般の「みなさん」である。100年200年の間に生まれた何万何億の音楽・何千何万の作曲家の中から、ほんの一握りの「選ばれた名曲」が淘汰されて残り、今それを私たちが享受している。その恩恵を受けた私たちは新しく「自分たちの時代の名曲」を作り選別し後世に伝える義務がある。

となると、あの「交響曲」も、数日前まで流布していた「耳の聞こえない天才が書いた奇跡のシンフォニー」という仰々しい表紙は抹消されたものの、この騒動の落としどころによっては数年後に「S/Nコンビの共同作業が生み出した日本初の本格的ロマン派シンフォニー」くらいの表紙でコンサートのレパートリーになってる可能性はゼロではないように思える。

Piano_cut008もっとも現時点では、ほんの数日前まで「天才」として祭り上げた偶像を「ペテン師」まで蹴落とすことにみんな必死だ。実際、私も交響曲が売れ出してから以降の彼の「人間としての行動(暴走)」にはぶん殴ってやりたい衝動を覚える。折角生まれた可愛い作品をドブに捨てかねない結果を生み、彼の音楽をバックアップした多くの音楽家たちの善意を踏みにじったからだ。
(実は、CDが出る直前…推薦のコメントを録画すると言うときになって…担当者から「タイトルはHIROSHIMAになります」と言われて吃驚し「それはやめた方がいい」と進言したことがある。そして「作曲家同士で対談しよう」と申し込んだのだが、「彼はそういうことはしないそうです」とあっさり却下されてしまった。今になってみれば「そういうことか」と思い当たるが、あの時にぶん殴ってでも止めるべきだったか・凸(ーーメ

しかし、一方作曲家としての目から見ると、彼の実像がいかがわしい卑小な男であればあるほど、そして共作者が気の弱い無力な人であればあるほど、この2人の間に生まれた「1時間以上にわたってなぜか人の耳を引きつけ、18万の人を虚構のロマン世界に誘い込んだ音楽」の誕生の秘密には(困ったことに)改めて「嫉妬」を覚えざるをえないのもまた事実なのである。

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音楽考」カテゴリの記事

コメント

 私は今でこそ、吉松氏の音楽が好きだと言えますが、最初の段階からそうだったわけではありません。「朱鷺」がN響で放送されたとき、指揮者尾高氏の「楽員の間での評判がとても良かった」というコメントに引かれて聞きましたが、うんきれいだな、と思った程度でした。「ペガサスエフェクト」も、熱狂的なファンが周囲にはいましたが、ムード音楽みたいなものだとわりと白けていました。その後、交響曲「地球にて」のCDを買いましたが、買ったこと自体忘れていて、3年ほど前に取り出してやっと感動しました。何が言いたいのかというと、私が吉松氏の音楽を受け入れる「耳」ができるのに20年ほどかかったということです。音楽を客観的に判断することって、本当に可能なんでしょうか。
 音楽の評価は、我々が思っているより難しいことです。たいていの人は、好き嫌いとか、自分の音世界に合致するかどうかで判断します。この掲示板で、「はじめからS氏の曲は大したことないと思っていた」「客観的に聞いて、どこがよいかわからない」とおっしゃっている方も、自分の音世界・自分の嗜好からは逃れられないということを忘れてはいけない。もちろん、倫理的な問題は検討しなければならないし、うそはアキマセン。しかしこれについては、当事者と、司法なり警察なりが主導的に動くしかないでしょう。我々外野が出来るのは、音楽愛好家として、十年二十年後に「今問題になっている曲」をもう一度聞けるかどうか。二十年後にこの曲に感動する人がまだ多数いるのなら、とんでもないプロセスで生まれた、しかし名曲という判断がされるのだと思います。その時には、ゲーム音楽の流れから新しい音楽が生まれ、クラシックの新しい聴衆が生まれたと言われることになるのでしょう。
 吉松氏が軽率だとか、道義的責任がとか考えておられる人がいるようですが、氏は(まったく面識はありませんが、私の知る限り)一時的な流行で動いたりすることとはほとんど無縁の人ですよ。黛敏郎氏から「ちょっとくどいね」と面と向かって言われて、それでも恬として作風を変えなかった人ですから。挑発してもあまり実りはないと思います。
 しかし今回の騒動に対する吉松氏のコメントは実に秀逸です。もう少し先が聞きたいので、ぜひよろしく。

五味康祐も「名曲は聴衆が作る」と言っていたような・・・。
吉松さん、NHKを説き伏せて本件の番組を作ってください。
乗りかかった舟と思って^^;)

「この曲を「色々なクラシック名曲を混ぜ合わせただけのごたまぜの作品」とか「学生レベルの稚拙なスコア」と卑しめるのは簡単だが、それでは逆にその「稚拙なスコア」で書かれた「ごたまぜの作品」が、なぜ1時間にも渡って聴衆の耳を引き付けて放さない音楽として成立したのか?そしてそれをコンサートやCDで聴くために多くの人が押し寄せたのか?ということの方に着目せざるをえなくなってしまう。」

確かにこれは大問題だと思います。それはビジネス的な熱狂だけで説明するのは難しいかと思います。そのあたり、新垣さんご自身はどのように考えておられるのか、それは知りたい。基本的には、自分は音楽の在り方そのもの、音の作り方から創造性を感じさせるいわゆる現代音楽(ブーレーズ、リゲティ等の)が好きですが、でも、ベートーヴェンやバッハ等が決して切り捨ててはいなかった大衆性(バッハでさえ「フーガの技法」だけ書いていたわけではなく「イタリア協奏曲」を書いている)を現代音楽は切り捨てているのは間違いないと思います。

ここに吉松さんは一石を投じられているわけで、今回の作品は図らずもこの問題に風穴を開けた印象です。

そもそも、日本の作曲界は戦前、山田耕作らが日本初のオペラや交響曲を書くという「理想」を追いかけつつ、戦後、一転してモダニズムを追いかけてきました。しかし、そのモダニズムの意味は十分に消化されないまま、他方で一般聴衆や演奏家は現代音楽に不満を募らせていました。この不満を一掃するには、もはや社会のすべてを否定しなければならないというほどにまで問題は深刻化していると思われます。

そろそろ日本の音楽文化というものを真剣に考えるべきときかと思われますが、吉松さんはこれについてどうお考えでしょうか?

そして、我が国「悲願の」交響曲を書いたのが、何とあの昨年逝去された三善晃氏の高弟とはなんという時代の皮肉でしょうか?

(もちろん、真の意味での傑作とは自分は認めてませんが、それでも作品が大衆文化と芸術そのものの在り方に何らか意味を持つ限り。)

冷静かつ真摯な御高察、頭が下がります。
音楽を評価することって、たとえどんなお題目や見識を振りかざそうと、所詮は個人の好き嫌いの域を出ないというのが私見です。好き嫌いの域を超えた客観的価値なんていうのは幻想だと思います。好きな人間が多数ならそれはイコール優れているなんてモノでもないですし。
そうしてみると、「こんなまがい物の駄作を褒めるヤツは音痴だ」なんて意見は、それこそ「佐村河内の天才性は吉松なんかとは比べ物にならない」と騒いでた狂信者の言と同じく、知的レベルの低さの表明に他ならないと思います。一連の記事のコメント欄にはそうした方が大勢いらっしゃってますけど。
吉松さんのおっしゃるように、今回の件、そんなに単純な次元の話ではなく、色んな切り口から色んなことが見えてくる面白い問題ですね。

吉松先生、毎日失礼致します。
少しずつでも、先生の誠意あるお気持がうかがえて感謝致します。正直、すこし安心しました。(そういうことだろうなとは思ってましたが、実際に言葉になって良かった)
わたしは昨晩「HIROSHIMA」をまた聴きました(CDは友人に返したので、N局の放送番組録画です)。
やはり、わたしは好きじゃないし(先生の文脈に添うと「真価」を認めないという意味もここには含みます)、作品の稚拙さが強く感ぜられて論ずるに足る作品にはとても思えません。
《もちろん初演の段階から「私はいいと思わなかった」…はワグナーやブラームスにもマーラーやショスタコーヴィチにも投げつけられた言葉…》。わたしの所感はそのようなレベルではありません。わたしはある高い評価を受けている作曲家の作品が大嫌いです(好嫌として)。しかし、〈芸術〉としてはそれらは一級品だとは思っています(「真価」は認めています)。
この「HIROSHIMA」は、そもそもそういうソ上に載るレベルにもないと思うのです。しかし、百歩譲ってもぜったい認めないとも言えなくはなってきました。確かに、一石を投ずる効果を期待できなくもないからです(今のところないようです)。そういう価値ということならばないこともないかも…。※もっとも、ペテン師Sは、ゲーム音楽が高く評価されたからもうけてやろうかという邪悪な魂胆があり(おそらくビジネスパートナーもいたのでは?)、作品の出発点に大きな瑕疵はあったと思っています。
《もちろんあの「交響曲」がベートーヴェンやマーラーと比肩する物だとはいくら私でも思わない》はまったくとうぜんなのですが、実際のお言葉で聴けて良かった。ベートーベンをコケにした文章を書いてた人もいましたが、並べて書くその見識を疑います。
また、CDが出る直前のいきさつも興味深く拝見しました。当時、こんな今のような状況は予見されなかったし、予見がおできになれなかったとは思いますが、ここでなにかしらの行動がされていたならばと思います。
狭い業界だから正義感が余計な面倒を起こすこともあろうかとも思いますが、先生の今のお立場ならばやはり正義を貫いていただきたいです。
まだまだ騒々しいことになるかとは思いますが、いい作品を今後もお願いします。ありがとうございます

曲の出来はともかく、ストーリーがよかったので絶賛しちゃいました。
全聾というストーリーが嘘で代作だったので、ばれないようにゆっくりと
手のひらを返しています。

って、素直に書いちゃえばいいのに。

作曲家自身が『彼(佐村河内氏)の申し出は一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる』と言ってるのは押さえようよ。
あと、CD買った人やコンサートに行った人には『特殊な傾向』があった。これも押さえようよ。
結局、騙されたとか、自分が信じた価値を否定されたくないとかだけじゃないのかな。
知的レベルの低さ云々言う人いるけど、そうやって自分を守りたいだけなのが透けて見える。そして、自分もそうやって知的レベルの低さを出してしまってる。
S偽作曲家が、同情されたくないと言いながらも、なんであんな壁に頭ぶつけたりするシーンを撮影させた。それと同じことやってるのが解らないのかな。
CD買って、高いコンサートのチケット買ってで悔しいのだろうけど、冷静にならなきゃまた同じことやるよ。

 《普通の人を(感動させるかどうかは別として)1時間以上じっと椅子に座ったまま飽きさせないというのは、実は大変なことである。》

 吉松氏、あなたは確かにこのことを一貫して仰っておりました。今日の記事を読んだところ、こういった「現象」を評価したわけで、音楽の内容を評価していたわけでなかった、ということでしょうか。ただ、こういった現象面でもって肯定的な意見を表明していたとすると、一人のプロの音楽家として不誠実な態度と私には映ります。何故なら、この音楽そのものに対する御自信の意見や感想が述べられていないからです。貴方は純粋に音楽として、どのようにこの作品を受け止めていらっしゃるのでしょうか。
 また、冒頭で引用させていただいた、《1時間以上じっと椅子に座ったまま飽きさせない》も、別に大した理由があるわけではないと思います。日本人のクラシック音楽の聴衆は、基本律儀です。まず演奏途中で席を立つことはありません。音楽が一応調性的に書かれていたら、最後まで席に座っているのではないでしょうか。最後の拍手も演奏内容如何にかかわらず、盛大にします(礼儀の一種ととらえているからだと思います)。欧米の人たちとの態度とは、全く異なります。こう言っては何ですが、会場にいた方々は飽きずに聴いていた、とは必ずしもいえなのではないでしょうか。
 

もともと吉松さんは初音ミクとかタルカスとかピアソラとかショスタコとかプログレとか
まだ出たてで評価の怪しい物に目を付ける才人ですから
彼を知っている人はだれも誠実さとか見識とか常識とか
そんなもの求めていませんよ(もちろん皮肉ではありません

プロット表は嫁が書いたものだそうです。

日時計さんへ

先ほど知的レベルが云々という投稿をした者です。
私は騒動前にS氏の曲を聴いたことはありませんよ。
騒動前は狂信者らの下品な言動に辟易して聴く気も起きませんでしたから。
おっしゃてることは邪推です。
今はというと、鬼の首をとったが如くこの曲を批判して回る人達にうんざりしています。本質において狂信者達と変わらないと感じます。

コメントによっては、今後も社会に影響を及ぼすことのない楽曲ばかりを生み出している方の嫉妬の爆発かもしれません。
「芸術」って、いったい何のため誰のためににあるのかなと思ってしまいます。
「HIROSHIMA」をバカにするのは一向に構いませんが、それ以上に人の心に影響を与える作品を発表して戴けるんでしょうね?
巨匠たちのパロディでも何でもいいですから、ぜひ耳の悪い日本人を少しでも動かす楽曲を発表してみて下さい。
せっかく数学的な頭が良くて、才能もお持ちの方が大勢いらっしゃるのに、「芸術」という言葉を振りかざして、関係者以外を全く寄せ付けない音楽を書いてばかりだともったいない気がします。
限りなく狭い範囲であーだこーだ音楽について語っているのではなく、もっと世の中に発信できる楽曲を書いて下さい。
それができて、初めて売れた交響曲をバカにできるんじゃないですか?
吉松さんのように、大河に起用されたり、還暦コンサートを超満員にして下さい。自身のオーケストラ作品などのCDも全国的に販売して下さい。
「芸術」は現在生きている人たちにわからなくてもいいと思うことは、なんとなく逃げのように感じます。

ただただ若手を推薦した吉松さん個人をここぞとばかりに批判することは、なんか違いますよね。
責任があるのは、佐村河内たちですよ。楽曲にも責任はありません。

本当に実力のある者は、批判などしてないよね。
「うまくやったな」
と、思っているかもしれないけど。

音楽とは清濁併せ持った「ミソクソも一緒」の劇薬と認識していた私にとって今回の騒動は別な部分で「劇薬」が効きすぎたように思う反面、ここまで音楽業界(作曲家、音楽出版社、レコード会社、演奏者、評論家、メディア、JASRAC)が必死に仕込まなければならない程堕ちてしまったと思うと少し悲しくなってしまいました。なんかボカロP連中の方が商売気がないぶん清々しさを感じるんだけど。

Sとか、Nとか、、方位磁石ですね~

一心同体だけど必ず違う方向を向いている。

>「1時間以上にわたってなぜか人の耳を引きつけ、18万の人を虚構のロマン世界に誘い込んだ音楽」の誕生の秘密

この秘密の答えは簡単である。
作曲者の佐村河内守が全聾だと詐称していたからである。
この簡単な答えになぜ気づかないのか不思議である。

悪徳商法のツボ売りのように見える。
ツボ自体は全然価値がないのにそれに幸福になれるなどの価値を付けて売る。
今回、価値がさほどない曲にS氏の身の上が加味されて売られた。
ツボには価値があるのだと最後まで信じる人達と今回は被って滑稽にさえ見える。
吉松先生は初演時の失敗時の喧騒を出されたが、そこにあがっている大作曲家作品とこのHIROSHIMAを並べて言われるのにはとても違和感がある。いくら初演の話と言っても、これらと同じ高さで話せるものだろうか。――「不見識」を言う論者は、そもそもそのように論じるまでに及ばずとしている(悪徳商法のツボに同じ)。自分は先生の立場に同情している方だが、このような例えを出されるのは何かキズ口が広がっていくように見える。
権威ある賞に推薦された作曲家氏は、この疑惑S氏と私立音大非常勤講師N氏のHIROSHIMAをベートーヴェンに匹敵する才能と評価されたなどと聞く。まったく信じられない。
吉松先生は、決してこの作品を良いとは言われてはいない。こないだは「問題作」とされ、そしてブログ文章全体から見ると、作品そのものの内容はむしろマイナスにされているのだと見える。しかし、ユニークな作品ではあり、発表されることに意義を持たれ、そしてまた日の当たらないクリエーターのためになるならばと当時は一肌脱がれたのだと思う。
吉松先生が賞審査員でいらっしゃったら、推挙ということまではされないだろう。
熱く自己保身をされている方には冷静になって考えて欲しいものだ。

吉松先生は、最初から偏見なしでは聴かれないと言ってます。

しかし、どうも他の批評家や指揮者の言動のイメージが強すぎるのか、どうしても火の粉を被ってしまいますよね。事件前に純粋に音楽だけを聴いての判断かどうか訊ねれば先生は、偏見を持ってしまっているとちゃんと答えたと思います。それに比べて、特にあの口が悪いK批評家なら絶対に自分の偏見を認めないばかりか、質問者を言葉で叩きのめそうとしたと思います。

>現代音楽…という脈絡では(私同様)まったく評価され得ない作風だが(…辛らつな批評家なら「ここはチャイコフスキー」「ここはマーラー」と全編にわたる模倣の痕跡をピックアップすることだろう)、とにかく徹頭徹尾まじめで正攻法な(そして宗教的な真摯さを持った)ロマン的情熱の発露と、終始一貫した情念の持続力は,聴くものの襟を正さずにはおかない。

HIROSHIMA紹介時(2011年5月26日 WebArchiveも参照いたしました)の文章を読むと、S氏の執念?怨念?とN氏の能力ときまじめさが浮かびあがってくるようです。面白いものですね。

ゴーストライターありきで当たり前とか音楽業界では常識とか言われても
今回は
障害詐称による障害者手帳取得、立場を利用した少女たちへのセクハラ疑惑などの悪質さが問題になってるんであって、
仮に五輪で高橋選手が良い成績を出してこの詐欺師が有名になったりしたら、ますます権力をもって少女たちへの性暴行がエスカレートする危険があったんじゃないですかね。
はては東京五輪の音楽担当なんかになったら目もあてられません。
この告発かあって本当によかった。
徹底的に潰しておかねばならないと思います。

新垣氏は気の毒だと思います。業界による嫌がらせがあったりするかもですね。

そのルックスから森田童子を思い出したよ。

 今日は。僕は熱心な聴き手ではないですが拝聴してます。
 僕は吉松先生が絶賛されてると友人から聞きましたし、CDショップポップでも絶賛してる人リストの中に吉松先生の名前を見ました。しかし吉松ファンである異なる友人は「単なる紹介されてるだろう」と言ってました。なお、彼はCDを一回聴いただけで中古に出しました。
 僕はNHKスペシャルを見てから聴きました。耳の不自由な人が作ったんだったら、これだけ大規模な曲のオケスコアを書くのは凄いわとは思いました。でも、音楽だけよく吟味すると、色々な作曲家のラインが団子みたいに単純に脈絡なく繋がってるし、曲のクライマックスとマーラーの交響曲第3番のクライマックスが明らかに似てる意識的と感じました。似るのは色々な状況もあるから厳しく非難されるものでもないですけど、クライマックスでのあのやり方は感心しません。あざとい。嫌な感じもしました。
 吉松先生や有名な人が絶賛していると言う事で―実際は吉松先生は絶賛されてませんが―、それの影響もあって内容も極めて優秀と感じた人も少なからずおられるでしょうきっと。
 クラシックファンはプライドが高いから、否定する否定される事は、自らの審美眼を貶される事。我慢ならないのは理解できます。
 感じ方は人それぞれ。心から良いと感じている人もおられるでしょう。でも、あのクライマックス部分からして、一体どうなんでしょう?作曲した人も謙遜もあるでしょうけど「あの程度」と言われてますし。
 とにかく「審美眼」とか「見識」を真正面から問われたり否定されたりするのはいい気はしません。それはよく考えないと駄目なんだと思います。

なぜ聴衆は釘付けになったか?
それは誰もが、耳の聞こえない彼の分まで聞いてあげなくては、と耳を澄ましたからですよ。
全聾の彼には死者たちの声が聞こえるのだ、とも思った。たぶんきっと。

飽きさせないのは主張がないから。あといい仕事はもちろん。
物足らない人もいるし、万人向けとも言えるし、これぞpostなんたらとかまあいろいろ。
賑やかなり。

三楽章聞いてこれがヒロシマかよ〜と思ったら、タイトルはあと付け。
これはNさん怒るよなー無理もない 
やっぱ「合唱付き」じゃないとね、どうせやるならww

ずっと聞こえないふりってどんな感じかな。
聞こえないと思って安心して周りでヤバいこと喋ってて今ごろ青くなってる誰かさん、とかいたら気の毒。
それで慌ててバッシング祭りなのかなww

しかしねー疑惑はまだいいよ、詐欺師、うそつき、偽、、すごいね〜 (寒)
著作権村臨時法廷かい 

ていうかどう転んでも全体的に漫画だろこれ (厳)
悪いけど。

はじめまして。失礼します。
制約された一定の条件下で書かれた作品ということがわかり、興味をもち今回はじめて聴きましたが、この新垣というかたは才能があるかたではないでしょうか。訓練された者ならだれでも書ける、とはちょっと思えない。一般に「マーラー風」とひとくちに言っても、それで切って捨てるのが適切なものもあれば、それを躊躇うのが誠実な批評という場合もある。

他の小品も聴きましたが、フォーレからピアソラ、新古典派等の引用とシニカルに論ずることもできるでしょうが、それらをつなぎとめ、音楽的な真実? を引き出す手腕が作曲者にあるように思えてなりません。もちろん、それらの作品も具体的な制約下で書かれたものでしょう。

今回の騒動も、「ヒロシマ」が本来のタイトルにもどされる機会になれば、作品外の情報に音楽が煩わせられることがなくなり、よかったのではないか。

>チャイコフスキー。ショスタコーヴィチ、マーラーの寄せ集めに何故聴衆が釘付けになったのか?

自称作曲者の数奇な物語に感情移入したことによることも勿論でしょうが、
上記作曲者たちの音楽には人間性に訴えるオーラといったものがあり、その模倣、コピーであってさえも
(現代の作曲家なら、(元があるから)誰でも書けるようなものでも)
なおオーラが残っているということではないでしょうか。

松浦晋也氏が自身のブログで言及していますね。

佐村河内騒動で考える(2014.2.9)
http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2014/02/post-ec5e.html

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