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« 続S氏騒動 | トップページ | しつこくS氏騒動・交響曲編 »

2014年2月 7日 (金)

またS氏騒動・長文多謝

Piano_cut009昨日午後、NHKでFM「ブラボー!オーケストラ」3月分1本の収録。

NHKのスタジオに入って挨拶の最初の一言が「えらいことになりましたね〜」だったので、S氏騒動の波紋はあちこちに広がっていることが知れる。スタジオに入っていたおかげで例の影のライターN氏の記者会見を見ることが出来なかったのだが、終わってからネットでチェックしてみた。

今回の件、S氏の虚偽項目が色々出て来るに及んで(テレビや新聞はドキュメンタリーや取材記事で彼の虚偽の言動や記述を報道してしまった点、音楽関係ではやはり著作物の虚偽申請にかかわる点で)事後処理にてんやわんやだが、それは社会的な問題。音楽界での問題は、彼の音楽やCDを聞いて感動してしまった人たちのPTSD(心的外傷後ストレス障害)だろうか。「だまされた」というショックとそれでも彼の音楽に感動してしまったという記憶の板挟みから「書いたのは嘘つきでも音楽は別もの」という《悩んだ末の肯定派》と、「嘘つきが書いたんだから作品も駄作」と切り捨てる《手のひら返しの否定派》に大きく分かれるようだ。

私としては、確かに交響曲のCDが出て有名になってから以降の彼の作品の「劣化」ぶりは気になっていたが、あの《交響曲》自体は「人を騙してやろう」という思って書いたにしてはあまりに「誠実」な響きがするのが気になっていた。(前回のブログ末尾で「現時点での発言は慎重に」と書いたのは、今簡単に「作曲家が嘘つきだから駄作!」と言い切るのは、一昨日まで「作曲家が天才だから傑作!」と言い切っていたのと同じ「底の浅さ」を露呈するからだ)

そもそも、あの「交響曲」が書かれた時点(2003年頃)では、「売れる」どころか長すぎてコンサートでも全曲演奏が不可能な状態だったのだ。もちろんCD化の話も皆無だったはずだから、どこからもお金が入ることもなく、完全な大赤字だったはず。あれは確かに(売れない作曲家が二人で共同制作した)純粋に音楽的な熱意によって生み落とされた真摯な交響曲と言っていいと思う。

では、以後の「怪しい仕掛け」と今回の「どんでん返し」は何だったのか?ということになるのだが、自ら「共犯」という(ゴーストライターというにはあまりに真面目で気弱そうな)N氏の会見の様子を聞き、ようやく「なるほどこれはビートルズとジョージ・マーティンの(ような)関係だったのか!」と得心した。追記:これはもちろん共犯の関係が…という意味ではなく、共同制作における対峙のバランスが…という意味です。念のため

御存知のように、ビートルズ自身はコードネームの知識こそあるものの正式な音楽教育は受けておらずクラシックの素養はほぼゼロ。たぶん「イエスタデイ」や「エリノア・リグビー」もポール・マッカートニーがメロディをギター伴奏の鼻歌でふんふんと歌って、プロデューサーのG.マーティンに「バックはクラシックっぽいのが面白いんじゃない?」「じゃあ弦楽四重奏なんかどうだろう?」というやり取りの中で作品が生まれていった気がする。アルバム「サージェント・ペパーズ」などはその結果生まれた傑作で、マーチングバンドからインド音楽そしてフルオーケストラまでが駆使される。アイデアを出すのは専門的な音楽知識がないメンバーで(だからこそ)「ここでジャズっぽく」とか「ブラスが入って」とか「オーケストラ全員で」と思いつくままのアイデアを言うことができた。それを、アレンジや楽器の知識はあるがそういう新しいアイデアはとても思い付かないプロデューサーが自分の音楽知識を総動員して注文に応える。その共同制作の結果生まれたのが彼らの中期の名作群だ。

今回のS/Nコンビもこれに似ている。S氏自身は(ロックバンドをやるくらいの音楽知識はあるものの)クラシックや作曲法の知識はない。当然「売れない自称音楽家」でしかない。しかも若い頃から難聴に悩まされている。そこにゲーム音楽の注文が来る。そこで、自分のアイデアをスコアにしてくれる専門家として音楽大学作曲科のN氏に、作品を発注する(いわゆる「下請け」だ)。この頃書かれた「鬼武者」(1999年頃?)の音楽は巨大なフルオーケストラに和楽器群が加わるなかなか意欲的な作品だ。このオーケストラサウンドの魅力に惹かれて、S氏は「交響曲を書こう」と思い立ったに違いない。

それがあの《交響曲第1番》である。もともとは(広島とは全く関係なく)「現代典礼」というコンセプトだったようで、アイデア設定表を見ると西洋宗教音楽(グレゴリオ聖歌やビクトリア、バードからバッハまで)から20世紀音楽(オルフやペンデレツキ)までを俯瞰する全3楽章の壮大な構想だ(しかも、ペンデュラムというロックバンドの名前まで混じっている!)。全曲の時間設定が「74分」(CD1枚の収容時間)という点からCD化を前提にしていたことが分かる。

Sn

この時点(2003年?)では、本気で(売れる売れないではなく)「世間をアッと言わせるような世界的な傑作を作りたい」という純粋な熱意があったのだろう。それは本物だと思う。実際、「売れるアテ」などその時点では全くなかったのだから。

面白いのは、(私も独学でロック経由だったのでよく分かるのだが)このアイデア表の素材の中に(バッハ以前と現代作品はあるのに)肝心のドイツロマン派から近代音楽までの「クラシック音楽の基本」がすっぽり抜けていることだ。なのにビクトリアやバード、そしてオルフとかペンデレツキといったマニアっぽい作曲家は知っている。ロック畑出身というかビートルズっぽいというかその音楽知識のアンバランスさが興味深い。

一方、そんなS氏から「こんな感じで作って欲しい」と発注された音楽大学作曲科出身のN氏の方は、その「クラシック音楽の基本」を叩き込まれた専門家。彼はクラシックの基本から脱却した「現代音楽」の世界に身を置いているので、S氏のような現代のクラシック音楽の常識からはずれたぶっ飛んだヴィジョンはない。結果(S氏からの奇妙な注文に四苦八苦しながら)、自分が音楽大学で習った古典の知識を総動員し、生真面目かつ誠実にチャイコフスキーやマーラーといった(S氏の発注にはない)ロマン派のハーモニーやオーケストレイションの書式をこってり盛り込むことになったわけだ。(私が最初に聞いて、素人の聴衆を1時間以上飽きさせないこの曲の不思議な「構成力」に感心したのは、この綿密なタイムチャートがあったためのようだ)

この「発想とアイデアの誇大妄想的異形さ」と「作曲法とオーケストラ書法の職人的精緻さ」という両者の(まったく異質な)要素が偶然合体し、あの(時代錯誤という非難も世の常識も怖れない)「壮大なロマン派交響曲」を生んだことになる。音楽に関わる者としては「なるほど。こういうやり方があったか!」と膝を打つ(というよりビートルズの例を聞いてから、業界の誰でもうすうすは考えていたやり方なのだが)絶妙な作曲システムである。

ところが、演奏時間74分と言う長いオーケストラ作品など演奏してくれるところはどこにもない。作曲後5年もたって(2008年)やっと演奏してもらえることになったものの、広島の会議場で「1・3楽章だけ」という状況。ようやく全曲初演にこぎつけたのは2010年8月だから、作曲から7年もたっている。これでは「売れる」とか「お金になる」というレベルでは全くない。しかも実際に演奏してみると80分を超えそうなのでCD1枚に収まりそうもない(現在は80分以上でも収録可能。実際この曲はギリギリながらCD1枚に収録されている)。この「大誤算」に頭を抱えていたのが私が彼の音楽に出会った頃ということになる。

それにしても、「耳がよく聞こえないので、オーケストレイターN氏の協力を得て大交響曲を作りました」…というだけでも充分音楽界に一石を投じる活動が可能だったろうと今でも思う。実際、その段階で三枝成彰氏が注目し(若手作曲家の登竜門である)「芥川作曲賞」に推薦(2009年)している(もっとも共作では結局審査に通らなかっただろうけれど)。感動云々を抜きにしても、作曲賞を取るくらいには充分「良く書けた力作」だからだ。ただし、芥川作曲賞や尾高賞のような賞を取ったとしてもCD化は難しいし、万一CDになったとしても「無名の新人の交響曲」のセールスではせいぜい千枚行くかどうか。「お金になる」とは程遠い(それは私の例を見れば良く分かる(笑)。その失望が彼を次のステップに踏み出させたのだろうか。

さて、ここから彼の悪魔的な進撃が始まる訳なのだが、まず彼の頭によぎったのは、特異な人生やハンデキャップを持った音楽家たちの奇跡的な「物語」が大衆の熱狂を誘発するという(プロデューサーらしい着眼点による)幾つかの実例だったのだろう。自分も「広島出身」で「被爆二世」という物語を持っているし「難聴(聴覚障害)」というハンデキャップも抱えている。この2点セットを持ち出せば少なくとも否定的な批評は(弱者に対する攻撃と見なされるので)封印できる。これをフルに利用して「作曲家S」を自己プロデュースしよう、と思い立ったことになる。

そして、テレビなどで「耳の聞こえない天才作曲家」を演じるポーズをとるようになる。その頃米タイムズ誌が「現代のベートーヴェン」と評したのは「耳が聞こえないのに交響曲を書いた」という点について言及したにすぎないと思うのだが、それを「ベートーヴェンに匹敵する交響曲を書いた」と意図的に誤読したのは(販売促進と言うより)ブラームスを持ち上げるためにバッハ・ベートーヴェンと並べて三大Bとした故事と同じ宣伝用のキャッチコピーにすぎない。

ちなみに、この頃のCD会社の姿勢を「売らんかな」の商法と批判するむきもあるが、トンでもない。現代のオーケストラ新作を録音するというのは莫大な費用がかかるうえ(前にも書いたように)どんなに売れてもせいぜい数千枚。元を取るどころか「どこまで赤字を食い止めるか」という苦心惨憺の方が大きいほどで、これはもう「とにかく新しい作品を多くの人に聞いてもらいたい」という熱意以外に何もない。「録音することになった」と聞いたときは、その「英断」に吃驚したくらいである。

これで7〜8千枚くらいCDが売れて「クラシック界で話題になりました」で済んでいればよかったのだが、そのあと広島の被爆者や東日本大震災の被害者の方々に絡んで「創作プロデュース」を始めたのは明らかにやり過ぎだった。おかげで新人の新作をバックアップするべく協力した善意の音楽関係者たちまで共犯者扱いにされる弊害を生み出し、現在の大騒動に繋がっている。その点については社会的制裁を受けてしかるべき「罪」であり、これに関しては同情の余地はない。

一方、真の作曲者N氏が出て来たことで、「じゃあNサンの作曲ということでいい」かというと話はそう簡単ではない。上記のビートルズとG.マーティンの例でも分かるけれど、ビートルズの解散後にG.マーティンが一人で傑作を残した形跡はない。残念ながら発注ナシの自分の作品で「バッハで始まってショパンに接ぎ木するピアノ曲」など、音大で正式に作曲を勉強したN氏には「理性が邪魔して(恥ずかしくて)」絶対書けないはずだ。S氏N氏どちらも「一人では絶対に出来なかったこと」が奇跡的なバランスで実を結んだ。それがあの《交響曲》だったわけだ。もう「二度め」はない。

サテ、こう考えてゆくと、一昨日まで「天才作曲家の書いた大傑作」今は「詐欺師コンビが書いた大駄作」と(リーマンショックみたいな)評価乱高下の渦中にある可哀想な《交響曲》だが、音楽的にはきわめて示唆に富んだ、学ぶべき点の多い問題作であることに気付く。(私個人も、売れていないときは「推薦」までして褒めたが、売れてからは全く興味を失った。でも、また今回どん底に落ちてから興味を持ち始めた。世間や常識と違う処に興味を持つのは独学異端の血のなせるわざだろうか(笑)

Shostako と随分話が長くなったが、「S氏ショック」からまだ2日。「だまされた」と悩むのも「ショックだ」と混乱するのも「ほらみろ。最初から怪しいと思ってたんだ」と自分の見識を誇るのも「褒めた奴も謝れ」と勢いに乗って罵倒するのも、ここしばらくは仕方ない。でも、客観的かつ冷静に解読してみると、この騒動、いろいろ興味深いモノを含んでいる。不謹慎だが、作曲家に関するスキャンダルとしては「ショスタコーヴィチの証言」(1979年)以来の面白さだ。ドキュメンタリー作家や音楽ライターの皆さん、要チェックである。

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コメント

すべての聴き手を巻き込む魅力に富むと同時に見事に設計された傑作だと確信する


この評価にお変わりはありませんか?

障害も嘘のようですよ。

さすがに吉松さんは見方が鋭いなと内容にうなりました。
僕もあのゴーストライターの方に驚きましたね。
イメージと違うというのも同感です。
恐れながら三枝さんのお名前は成彰さんだったと思います。
これは実は芸名だそうで、成章がご本名だったと思います。
(姓名判断のアドバイスで画数をかえたとか聞いた覚えがありますが)
僕自身はこのニュースに関してまあ、長い人生こういうこともあるのかなと淡々と
受け止めていますが、実は佐村河内さんの音楽のサンプルをあちこちで聴いて
Amazonで取り寄せてみようかと思っていた矢先だったので
運が良かったような悪かったような複雑な気分です。
YouTubeにアップロードされた音源の再生回数が今後増えていくでしょうね、音盤が存在しなくなるにつれ。
しかし・・・・、特に最終楽章の行進曲みたいな部分を聴いて感じたことですが
確かにあれをヒロシマというのはなんだか場違いな気は素人目にもしましたね。
なんだか表現が狙いを付けているものが違うような。
やはり本来は別物だったんですか・・・・・・。
しかし、たとえ不器用でも本当の自分の作品を自力で生み出すという根性を発揮してほしかったなと思うのは吉松さんの独学の奇跡を目の当たりにしているからでしょうか。
佐村河内の音楽は嘘でも吉松さんの経歴を知ってたおかげか大して傷つかずに済みましたね、本当にありがとうございます。
ほかにちゃんと本物がいるんだと知ってたおかげで。
こういうと何ですが確かに芸大出の
作曲家より、昨今それ以外のルートで音楽家になっている人間の方が成功者が多いような気もします。
音大での作曲家に案外オーケストレショーンの不得手な人が多いような感じがするのはどうしてなんでしょう。
俺なら金にならなくても評価されなくてもひっそりと自分の納得のいく曲をじっくり世間に隠れて作り続けますかねえ。佐村河内さんと同じ立場なら。
で、理論的に破綻がないか、たまに専門家に添削してもらうと・・・・・。
料理が自分が作ったものが一番うまいのと同じ、やはり不器用でも自力で作った曲が一番愛おしいんじゃないでしょうかね・・・・・。

先生、毎日失礼致します
わたしは、“後出しジャンケン”ではありません。友人から「HIROSHIMA」CDを借りて聴いた時、はっきりと「たいしたことなかった」と言って返しました。
始めから終わりまで○○風が連綿と続き、コーダはマーラーの交響曲第三番の効果をイメージしているのは明らかです(これはインスパイアやリスペクトというたぐいでもないでしょう)。ペテン師Sの指示書なるものにもいろいろ作曲家の名がありました(作曲家Nがそれにすべて従わなかったとしても、制作過程ではペテン師Sはチェックしていたようです)。
昨年に疑問を持ってこれを文章にされた音楽家N氏は安っぽいとされていましたが、わたしもその稚拙さに吐き気を感じたくらいでした。
たしかにこれまで聴かれなかった異様な雰囲気を醸すものであり、そういう意味合では「問題作」と言えるかもしれません。しかし、ほんとに高く評価されるような代物なのでしょうか。とてもそうは思えません。
やはり、わたしにはこれを超積極的に推した関係者の不見識ぶりに憤りを感じます。関係者の本音を聴きたい。今でも傑作とお考えなのか、それとも…。
とにかく曲がいいから売れたんだという人もいますが、そういう“推進力”がかなりの役割を担っていたと思います。
○○さんがイイと言ってたから…とした一般の人は少なくないはずです。見識ある周辺の人が、「違うんじゃないの」とはだかの王様よろしく言えばこんなことにならなかったのではないでしょうか。
人間、とくに日本人の潔さは大切であり美徳だとわたしは思います。
吉松先生にはいっそう厳しい鑑識眼で今後も音楽を見つめていただきたい。

マーラーの交響曲もむかしは、作曲素人の指揮者が書いた「うさんくさい」「色んな音楽をつぎはぎしただけの」音楽と評されていましたし、ショスタコーヴィチも「20世紀も後半になって交響曲なんて時代錯誤の曲を書く例外中の例外」と評されていましたから、同時代の人の批評というのは案外あてになりませんし、誰しもが評価する絶対的な「名曲」というのは存在しないのでしょうね。

私も最初から「うさんくさい」とは思っていましたが
現状のS氏大バッシング。というより溺れる犬に石を投げつけるような騒動の中でとことん客観的視座にこだわる先生の姿勢に拍手です。
しばらくは感情的な嫌悪感でだれもこの騒動を冷静に分析することはできないでしょうし、このコメント欄もそういう人が乱入してくると思いますが、どうかお気になさらずに。

吉松さんに無理やり(あなたが納得する)後出しジャンケンをさせようとするのは可笑しいでしょう
質問の目的が本当に「吉松さんの交響曲に対する真意を知りたい」というのなら、少ないともブログ内の過去の記事を参照して、推察するくらいは最低限やらないと

そもそも、発覚前だろうが発覚後だろうが、本名を出した場で真意すべてを聞き出せると思ってる事自体不思議だ
故人の遥か高みにいる大作曲家について、あえてあれこれいうのとは場合が違うなんて誰でもわかる(発覚前後関係なく)

吉松さんが作曲家の"プレイヤー"だからこそ、自分と同じジャンルで、現実に人に影響を与えた、自分に持ってなかった部分について("に関しては")嫉妬したと表現したのは、すごく想像できます

鬼武者やバイオハザードなどはゲーム音楽という「お金になる曲」だから、発注する動機がまだ分かる。
では、なぜ売れるはずもない交響曲(それもマーラーばりの長大なもの)などというものを発注したのだろうか。
交響曲を書き終えた後に自伝を出版する予定はあっても、それが演奏され最終的にCDが10万枚以上売れる未来など、曲の発注当時に見えるはずもない。
おそらくS氏、あるいはN氏にも何かしらの「野望」がなければできないように思う。
…という、自分もむしろ「今回の騒動の裏の物語」を知ってみたい気持ちの方が強い人間です。
ただスコアの想定時間が74分であり、CD録音を想定しているものだとは初めて知りました。
立場上あまり大っぴらに言えないこともあるかもしれませんが、吉松センセにはぜひ今回のような音楽探偵としての推論や考察なども書いてほしいところです。

もしも、上記の通りだとすると、吉松さんが新垣さんに作曲を支持するか、吉松さんが新たに新垣さんを説き伏せてプロデュースすれば、また「傑作」が誕生するということになりはしないでしょうか。

そうすると、結局、「傑作」を誕生させるために必要な条件というのは、「過去の作曲技法に精通していること」+「過去の様々な価値観を混合し、ストーリーを描くプロデュース能力」ということになるでしょう。

しかし、創造者たらんとする芸術家がそんなことであっていいのでしょうか?

やはり、この作品の何が本当にすばらしいのか、もう一度改めて吉松さんから伺いたいと思っています。

自分個人の意見では、この作品は個々のフレーズがあまりにもとってつけたようで胡散臭く、「新作」としても、また過去のスタイルをまねて書いたクライスラーやポンセの例のような意味でも評価は難しいと思っています。しかし、だからと言って何の意義もないとは思っていません。

是非、吉松さんのご意見を宜しくお願いします。

今でも「曲はいい」「これから純粋に曲だけを聴いて判断しよう」と言う人がいる。
こんな例えはどうだろうか。レストランに行って席に着く。厨房では、肉を汚れた床に落とすがそのままそれを使う。大トイレしても手も洗わずに生魚料理する。カビの生えた調味料も構わずに使う。そして料理は仕上がり、皿は客の前に…。
おいしかったと客は思った。最高の料理だったと客は思った。
おかしくないだろうか。おいしければとにかくいいという問題ではない。
かりにHIROSHIMAが純粋な心で作られたとしても(本当はとても純粋に作ったとは言えないが)、N氏の言を信じると、全くいい加減な料理方法だったと言わざるを得ない。
推薦に値するような曲なのだろうか。推薦に値するような曲として専門家には受けられたのだろうか。

その疑問に対する答えが今回のブログ記事なのだと思いますが。。。

S氏のウィキペディアみるとドアーズ好きを公言してたらしかったり、N氏が必ずしもその世界ではエリートとはいえない経歴だったりで、なんだかヴェルヴェットアンダーグランドではないかなどと思いました。NHKがウォーホル。あとは愛憎とかゴシップがもっとほしいところですね。。。

良いと思ったものを推薦することは悪いことですかね?
吉松さんをはじめ、作家や評論家、指揮者、演奏家などの方々が良いと思ったから推薦したのです。
結局、佐村河内さんたちは詐欺を働いていたという残念な結果にはなりましたが、「この音楽は素晴らしい!」と言った人たちに何の罪もありません。
それが罪なら、この保守的な芸術オンチの日本には何も生まれません。

新しい音楽を待ち望んでいる僕たちクラシックファンは、左脳的な自分の頭の良さを主張するばかりの音楽を聴かされることにウンザリしています。(もちろん、そんな音楽ばかりではありませんが)
その証拠に、色んな要素が手伝ってではありますが、「HIROSHIMA」という現代の交響曲に大勢の人々が共感したのです。
それはまぎれもない事実です。
もしあの楽曲がわけのわからない自己満足の実験音楽なら、難聴であれ瀕死であれ独学であれ、誰も見向きもしません。世間はシビアだと思います。

しかし、あの二人が犯してしまった罪は、大勢の人々を傷つけてしまいました。
もしかすると、聴覚障害者への疑いのまなざしにつながるかもしれません。
「これほんとに自分で書いたの?」と、作曲家に対する不信感につながるかもしれません。

彼らが犯した罪は、かなり大きいのではないでしょうか?
弁護士ではなく、早く佐村河内さんの言葉を聞きたいです。

ご存知だろうと思いますが、オーディオ界にマーク・レビンソンという人が居ます。アンプのブランドとして第一級です。しかし、彼は謂わばプロデューサーで、回路設計は他人の設計です。その設計者は自分の名を冠したアンプを造って成功したかというと、そうではない。
世の中にはこういう例は五萬とあるでしょうね。

作曲過程の真実を知ってバツの悪い気持ちになるのも、倫理的に許されないレベルの虚構だったのもまさしくその通りだと思うが、出来上がった曲とは関係ないよ(曲の出来不出来の評価以前の話、つまり良い曲だからそれは評価しようとか以前の話)
これまでファンにはそっぽを向かれ、関係各所には多大な迷惑をかけ、関係ない人にまで社会的制裁を受け、当然カムバックも出来ない所まで想像に難くない、が、逆にいえばそれだけのこと

今回倫理的な問題として非難される(べき)のは、"作曲過程がクラシックで普通の手順じゃなかった事"自体じゃないからね
音楽ファンが個人的にそこに疑問を持つことは何ら問題ないが、それは個人の気持ちで終わる話

音楽家や評論家が責められるとしたら、結果的に騙されていたとしても、直接音楽とは関係ないような感情論で煽っていた場合(とくに販売する方の期待に答えるような形での発言ならなおさら)

これがごく普通の理屈だと思いますが

この曲って黒白付けられるレベルじゃないですか?とてもグレーゾーンにあるとは思えませんよ。簡単に「見分けができる」という表現をほんらい芸術に使うべき言葉ではないですが、まあそんなモンです。
あの音楽学者Nさんご出演のドキュメンタリーを昨晩見ましたが、もうなんかのコントのようでした。
また評論家Kさんの文章などは大家たちを愚弄したうえでのもので、最低最悪です。
こういう人らはワカッタうえでしてたんじゃないですか。
吉松さんはただちょっと紹介した程度。彼らとは違う。それが、なんだかうまい具合に(不幸にも)宣伝にフル活用されたと僕は見てます。ちょっと気の毒です(笑)。本当はいろいろおっしゃりたいと思いますが、すぐには難しいでしょう。

S氏N氏どちらも「一人では絶対に出来なかったこと」が奇跡的なバランスで実を結んだ。それがあの《交響曲》だったわけだ。もう「二度め」はない。

↑作品擁護派として実に秀逸なレトリックですね。感心いたしました(断じて皮肉ではありません)。

音楽の知識・レトリック・空想といったツールは、私達の音楽体験を豊かにする一方で、一種のまやかし・色眼鏡となってかえって邪魔になるという危険も孕んでいますよね。
今回の一件で「美って何だろうか?」、「僕が何かを愛でるのは一体なぜだろう?」と改めて考えさせられます。

この記事持って書籍化やNHKのドキュメントに売り込んではどうか。
TVやラジオで解説というのもいいかも。

そう、吉松氏は「良い」とは言われてはない。「推薦」という言葉ではあるが、一つの実験的な意欲作として、例示的な紹介をされただけであったと解せる。
自分は、『HIROSHIMA』は面白いと思わないではないが、野心が若干見える学生の習作程度と聴いた。傑作とはまったく考えられないし、ましてや大作曲家と伍して論じるなどはあり得ない。
吉松氏には、ご自身が考えられている以上にご自身に大きな影響力があることをよく認識して頂きたい。もう一介の作曲家ではない高いお立場にある。

これが「ショスタコーヴィチの一連の交響曲が影作家によるものだった!」なら音楽ミステリーとしてヨシマツ流に調理できるのに、と思います。
が、なにしろ相手は今を生きている作家。
あまり軽々しく好き勝手は言えない……?
オリンピックという話題の効果も大きい。

それにしても、吉松さんにこれほどまでに反響があるとは!
いつもは数人がコメントする程度のブログなのに。
コメントは初ですが、去年くらいから文章は読ませてもらっています。

事実誤認が多いと思います。音楽だけ持ち上げてもだまされた事への説明になりません。ビートルズと比較されていますが、アレンジとメロディー創作は違います。二人の製作過程にしろ、独断性が強いと思います。N氏の会見では言葉の節々にN氏の創作比重が高かった印象を受けました。あの構成表も人の音がよく聞こえないと書けないのでは? 吉松さんに伺いたいのですが、佐村河内と会われた事はおありでしょうか?本人を介さずに作品の真価が分かるものでしょうか、推薦するとなれば尚更です。

  私は今回の騒動を聞いて、この前代未聞の珍曲に俄然興味が湧き、急いでネット注文し購入することができた。そして、聴いてみた(S氏についての知識は全くない)。
 結論として、 「この曲のどこに褒められる点があるのだろう?」というのが率直な感想だ。空虚なフレーズが延々と垂れ流されるこの音楽のどこに、「一般的な聴衆を飽きさせない」要素があるのだろうか?確かに私は「後出しジャンケン」である。しかし、この曲をどのようなタイミングで聴いたとしても、「平凡で退屈」以外の印象は残らなかっただろう。 
 今回の件は「日本人の西洋音楽の受容」という意味で、大きな課題が露見したといえる。この音楽を称賛したほとんどの人が、「全聾」「被爆2世」といった要素を抜きに、この評価を下すことはなかったのではないだろうか。個人的な言い方をさせてもらうなら、「ムードで音楽を聴いている」わけで、音楽そのものを聴いているわけではない。「お涙頂戴的なサイドストーリー」によって、「感動した気になっている」だけなのだ。つまり、音楽的な審美眼の決定的な欠如である。
  残念ながら吉松氏、あなたもこういった輩と同類とみなされても、言い逃れはできまい。もし、挽回するならば、「どのような点が心に響いたのか」具体的に示すことではないだろうか。

ビートルズとは大違いですよ。S氏は楽譜もかけないレベルだそうで音楽家でも音楽プロデューサーでもない。歪曲化はやめたほうがいいです。

僕は吉松さんのホームページをブックマークに入れさせていただいていて
日記は毎日開いて読ませていただいてますが
この件に関する反応はすごいですね。
twitterのretweetの数と言い、驚きです。
専門家が真っ向から論じる多分数少ない記事だからではないかと思います。
それこそいまテレビでこの件を報道している番組のスタッフなんかもネタを探しに
見に来ているかもしれませんね。

ただ、僕は吉松さんがかつて推薦の役割を買ったからといって吉松さんまで、あるいはほかの音楽関係者まで共犯というのは少し筋が違うのではないかと思います。
彼の作品を出版していた出版社がグルではないかと考えるのはわかります。
実際業界筋ではそういう見方をしている人も多いようですね。
本人に会わずに真価が分かるかと書いておられる人がいましたが
それはあまり意味のない質問じゃないでしょうか。
俺はクラシック音楽はじめ好きでよく聴きますが、クラシックの作曲家の大半はほとんどが故人ですよ。生きてる人のクラシックの方が珍しいくらいです。
ジャズだって同じでしょう。
手塚治虫の漫画だって最近の人は死後になってから読み始める人の方がほとんどでしょう。僕の世代からすると考えられないことですが。
会わずに音楽を評価する方がむしろ普通です。
僕は吉松さんのCDはずいぶん買わせていただきましたが、当然吉松さんに会ったことはありません。
同じ業界にいる人同士でもむしろ互いに顔を合わせたことがないのが普通ではないでしょうか。
世の中後から互いの仕事が同じだった、近かったと知って驚くなんてことはざらにあります。
ただ会っていれば(何度か会って音楽に関して話せば)おかしいと普段の吉松さんの分筆の内容の鋭さから考えるにすぐに気がついたでしょうね。
実際関係者からの指摘で発覚したなんて報道もあったくらいですから。
しかしこの記事を読んでいてビートルズとプロデューサーの関係性との類似を指摘するあたりでなんだか映画監督と映画音楽の作曲家の関係を連想しました。
僕はサントラファンなもので。
映画のサントラだと正当な音楽教育を受けているとまずかけないような恥ずかしい(理性の拒否する)組み合わせで曲を作るなんて言うのは結構素人目にも聴いててよくあることのような気がします。
イージリスニングとか一頃ニューエイジと言われたような曲は結構そういう所ありますよね。

「HIROSHIMA」は学生の習作以下じゃないかな。こんなんで感動して泣けるんだったら、マーラーの3番聴いたら卒倒するよ。ときには死人も出るんじゃないかな。
知らないって怖いと思う反面、ちゃんと営業したらマーケットはとても大きいことが分かった。
吉松さんには、総合的には気の毒な点もあるかとは思うが、しかし責はあると思う。初は気楽な感じで「推薦」されたのだとは思うが、異常な販路拡大戦略(←これはこの一件の大きな原因だと思う)による異常な売上がある時点で、無関心ではなくてなんらかの手立はされるべきであったと思う。そんなに価値ある作品でないことは、吉松さんがいちばん分かってたのではないか。

なお、吉松さんと並んで、作曲家S氏・指揮者O氏・大学教授N氏・ライターK氏などがたたかれたりしているのを見る。吉松さんとほかの人とは関わり方が違うと考える。ほかの人は積極的に関わっていて、その不見識またはもしかすると悪意の協力でもあったのではないだろうか。糾弾されることがあってもやむを得ない。それにメディアももちろん。
☆日本における西洋音楽の受容のコメント、溜飲が下がった!

「虚構によって影響された人たちと同類に見られても言い逃れは出来ない」というのは、そう言ってる人自身がそう思いたいだけでしょ
「前に聴いて(言い出せなかったけど)実は良くないと思ってました」程度の後出しはまだわかるが、「話題になって初めて聴いた、こんな曲を推薦したのか」なんて、いい歳してそんなことやって恥ずかしくないのか?これは後出しジャンケンの体にもなってないぞ
論理的に問題を把握してその部分について責めるという当たり前のことをする気がさらさらないのは人としてマズい(そんな価値観で生きてこなかったからこそ、ズレた非難をするんだろうが)
さらに発覚前からどういうスタンスで述べてきたかを参照すらしないのは救いようがない

「推薦」という言葉のもつ響きに過失責任を求めるものわかるが、騙されてたにしろ正体を見抜くべきだったと言うのも、微妙に責任を負わせたいありきな理屈な気がする

ずれてる粘着者2人(同一人?)いる。いちいち要らないから。書くなら的は射抜かなくていいよ、ベクトルは揃えてくれ。頼むわ

クラシック好きはたかが音楽の一ジャンルを神のように崇めてるから困る、クラシックなぞ人類の歴史的にも浅く狭い音楽でしかないのにな。
元が多民族の音・楽器をキリスト教流でまとめたに過ぎない代物でしょう
そんな物の何処に権威が発生する余地があるのかほんとに疑問だ
やっぱ極大の白人コンプレックスの成せる技かなw

 私は何も吉松氏の揚げ足取りをするつもりは、全くありません。ただ、氏は「推薦」以上の表現(「ロマン的情熱の発露」など)でもって、この作品を称賛していたわけです。
  『発覚前からどういうスタンスで述べてきたかを参照すらしない』と仰っていますが、あなたは当然、この氏のコメントも踏まえているんですよね?

>>franzさん
この曲に対する評価は人それぞれでいいと思いますし(ちなみに私は聴いてないですし聴くつもりもないです)、稚拙なものだと思えば、その評価をもとにこの曲を賞賛した音楽家や評論家などに対していい気がいないのは当然のことと思います
それとは別の話として、今回の騒動で吉松さん自身に問題があったと仮定すれば、S氏の倫理的に問題になった部分と吉松さんがどう関わったかという点です
franzさんだけでなく、私がコメント欄で疑問に思う方は、その2つを混同して考えてしまってる気がします

例えば、吉松さんが大御所だろうがアマチュアだろうが、また実際の音楽的センスが如何ほどかに関係なく、誰かの考える吉松さんの「音楽的センスの欠如」に関して、個人の心情内で馬鹿にされることはありえても責められることはないと思います

今回の件で、音楽的な曲の解釈にしても、それをもとにした詩的な表現にしても、発覚前後に関わらず気に食わない方が出てくるのも理解できますが、それはその方にとっての馬鹿にする材料なだけであって(音楽センスの欠如だけでなく、騙された結果大袈裟に褒めて恥ずかしいことしちゃったねという妄想もあってもいいですが)、責任云々とは直接関係ないでしょう

賞賛していた専門家の過失責任は、騙されてたことも考えると、自身の立場に何かしら利益になるような形で、セールスにつながるように積極的に宣伝していたというのが見受けられる場合くらいじゃないですかね(これもあくまでも社会的な・感情的なレベルの責任という話ですが)
「推薦」という言葉の響きによって過失責任を厳しく見る(見て然るべきと思える)のも、その発想自体も感情をもとにしてると思え、私には理解出来かねます

最後に、こんな長文を載せてしまい、結果吉松さん本人に迷惑を掛けてしまうことも十二分に有り得ると思います、すみません

長々と書いた上に、補足します

私が書いた「過去の記事を参照する」の意味は、上記で私の考えた理屈として過失責任があるかどうかを判断するために確かめて下さい、という意味でした

「私の考えた理屈」と言っても、普通の理屈だと思っていたので、特に但書きみたいなのはしませんでしたが

nさん、あなた全然駄目だよ。ほんと失礼だけど、推薦とか過失とか責任とか、意味合が理解できてないし、先生の記事もコメントも誤解してる。もしかして先生の足を引っ張るのが本当の目的なのかとさえ見えてくる。
fさん、あなたの言ってるのはよく解る。他の人も解っているはずだ(論旨そのものに賛成するかは別として。小生自身はあなたと概ね同旨)。

 まるで某掲示板のような流れになっていますが・・・
 前もって言っておきますが、今回の件で吉松氏の実績に傷がつくわけではなく、氏が我が国の代表的な作曲家であるという考えに変わりありません。
 私がこの件で感じたのは、氏の「責任」というよりは、「不見識さ」です。記事を読み返すと「素人の聴衆を1時間以上飽きさせない」という表現が見られますが、どう考えても個人的にはそう思えません。例えば、調性的な音楽技法で長大、かつ交響曲を書いた作曲家を挙げるとすれば、私にとってはブルックナーです。正直、家で聴いていると、その長さから途中で居眠りしてしまうこともありますが、彼の作品からは平凡さは感じません。 
  吉松氏ご自身がこの世界に身を置いている立ち場として、「新人を応援したい」といった心情があり、この作品に対してある種のバイアスがかかってしまったのは、理解できないわけではありません。しかし、そのことを差し引いたとしても、やはり氏の下した評価は、氏が音楽界に影響力を有する立場の人間であることを考えれば納得がいきません。また、騒動の後の記事で、S氏の書いた指示書(?)なるものを結構高く評価されたり、 ビートルズの創作過程を引き合いに出されたりしていますが、自己正当化のための苦しい詭弁にしか聞こえず見苦しいです。こんなことをするんだったら、素直に自分の判断の誤りを告白するか、「良いものは、良いんだ!」ともっと強く主張すればよいと思います。この辺りのがっかり感も、ここに意見を書きたくなった理由の一つです。
 長々と述べてしまいましたが、あくまでもS氏(N氏)の作品について私が個人的に抱いた感想が基となっています。どう感じるかは、人それぞれです。nekoさんも実際に聴いてみて、まずはご自信で評価されてはいかがでしょうか。youtubeでも聴けるようですよ。  


はじめまして。たまに吉松さんの曲は聴かせていただいております。

さて、今回の騒動。私Sさんの曲をほんの少し聴きましたが・・・最後まで聴くのが非常につらい楽曲の数々でした。つまらないとしか感じませんでした。

みなさんが褒めている「吹奏楽のための小品」についても、とらえどころがなく、空虚さしか感じることはできませんでした。ピアノ曲もありふれているし・・・全てが空虚 


私はfranzさんのご意見に賛成です。

コメント数が見たことのない数に・・・(笑)

自分は吉松さんの記事を見てCDを買いました。S氏の著作も買いました。(これも本人が書いたのかは分かりませんが・・・)

結果、S氏の曲は自分には合いませんでした。著作は中盤のオカルト的な部分にやり過ぎ感を感じましたが、面白い読み物だと感じました。曲は他にも聞きましたが、「吹奏楽のための小品」の法螺貝が面白いなと思ったぐらい。

でも、それについて吉松さんに「プロの作曲家として見識がない」とは別に思いません。本人も書かれているように『売れていないときは「推薦」までして褒めたが、売れてからは全く興味を失った』程度の曲だったということ。

自分はこの第一報を知ってから、吉松さんはどんな記事を書くかと楽しみにしていました。この3日間の記事は非常に興味深いものです。自分は野次馬的、また音楽業界への問題提起として楽しんでいますが、皆さんはどこまでこの問題に深く関わろうとしていらっしゃるのでしょうか。

最後に、今回の事件はペニオク事件のようなものとは違い、曲が現存しているのです。個々人の好みはあるでしょうが、

罪を憎んで曲を憎まず

とはならないものでしょうか。

偽りの件は社会的問題に限り、音楽はそれがどうであろうと変わりないということですね。
しかし音楽は、庶民は音楽だけを判断するのではありません。聴いている時の環境、何を思って聞きます。食べ物だってそうでしょう。それによって本当に変わるんです。
今回の曲は広島の祈りをコンセプトとして作られ、被害にあった人々やその親族などは強い思いをそれに重ねた事でしょう。それが裏切られたことは、ただの社会的問題だけではありません。
何より私が社会的問題だけでは野放しに出来ないのは、ヴァイオリンの為のソナチネを送った手に障害を持ったヴァイオリニストの少女の事です。
彼女は、5年間レッスンなどを受け、一生懸命練習し佐村河内さんに凄く慕っていました。
彼女は片手で4年間も掛けて千羽鶴を折り彼に送りました。「佐村河内さんに元気になって欲しい」と。
彼は少女の夢を純粋な心を踏みにじったのです。若いだけに深く傷ついてることでしょう。
私は、世間多くの人、音楽家が言っている社会的問題や音楽性がどうこうよりこの部分が1番罪だと思うのです。
本当の音楽家ならこの事がどういう事か分かると思います。

“HIROSHIMA”はパロディとかコミックとかという感じで聴いたら、それなりに面白いと思う。沢山の作曲家の特徴がうまく消化されている。しかし、決して本コースを走れる類ではない。
作品を書いたNさんも、「一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる」と言う程度の作品とした(会見では違うことを言われたようだが、沢山の人がいる前では手抜きであったとも言えなかったのだろう)。
大抵のクラシック音楽ファンは、ちょっとこの曲を耳にしただけでB級品と判断できる。難解な問題ではない。
一般素人は別論、ちょっと詳しい素人ならば容易に分かることをプロが分からなかったことは不見識としか言いようはない。
吉松さんについては、ご本人が言い訳がましいことを避けられているためにはっきり言われないが、社会的慣習のちょっとしたリップサービスが“悪用”されてしまったという事だと思われる(“悪用”が片棒を担ぐ様になった時は何等かの行動はされるべきではあった)。この今になって、「とるに足りない」とはさすがに言われない。ブログにおいて「問題作」と少し踏み込んだ表現をされたことを察して差し上げるべきかと私は考える。この他にも文面の中には、吉松さんの苦渋が感じられる。
franzさんのコメントには賛同できるが、吉松さんに関してはこういうところだと思う。日を置かれて、漸次釈明されると期待する。他方、楽聖を引っ張り出してあの下らんのを持ち上げた不見識者は絶対に許されないし、許してはならないと考える。

まあ吉松先生も佐村河内守氏のハンディを知って応援してたんだよね
で、その気持ちを踏みにじられたと
吉松先生御自身の口からは仰らないでしょうが

先生お書きになられてるように
音楽的に面白い側面もあると思いますけども

追記
吉松さんが、この喧騒の中、隠れることなく、ブログにおいて沢山の思いを表明されている事、またコメント欄も閉じられていない事、大変な勇気と誠意を感じる。
他方、いわゆる佐村河内アンチに対して、理解能力欠如や病院に行けなどと煽っていたシンパが逃げているのを見ると、何とも複雑だ。
こんな事がないようにして欲しい。

みんな素直に、自分は曲の良し悪しが判らず、雰囲気に酔っていた馬鹿です、と書いちゃえばいいのに。

曲の良し悪しもわからない上に、誠実さも欠けているとは

同一人物が名前を変えて、書き込まれてるような気がしますが...
私は自他ともに認めるような理屈っぽくて頑固ですよね、しかも人様のことで火に油を注いでるのに気にしていないというのもヤバい、のですが...

タイミングに関わらず、クラシックファン・吉松さんのファンが失望した、不見識だと言った感想を持たれるのはありうることだしそれも当然自由だと思うのですが、責任云々はS氏の「虚構」にどう関わったかが関係してくるだけだと思います

「曲」「作成過程」に対して、吉松さんやその他コメント欄に来てる方が、発覚前後に関わらずどういう感想を持ったのかは、全く気にしていません
曲を聴いた感想から、責任に関して問い詰めたいとする気持ちが出てくる発想がわからないです

これだけ酷い曲なんだから、賞賛も確信犯だろという話なのか、とにかく不見識な音楽家なんだから結果責任とれよっていう話なのか
正体を見破らず推薦した結果助長させたのだから結果責任はとれよっていう話ならまだわかるのですが

「あんたみたいに周りの人や世間が理屈っぽく、なんでも切り分けて考えると思うなよ」というのもまあその通りといえばそうなんですが、こと理不尽さの場合、有名税だろうが見るのは嫌なので

結果責任に対するバランス感覚やS氏の件で何が問題になったのかということに対して、吉松さん自身含めコメント欄に来てる方に大なり小なりこういう暗黙の前提があるからこそ、「あなたひとり」の「気持ち」が満足するような文章が載らないのでしょう

炎上助長、本当にすみません

いやはや、こういうベクトルで書いても、暖簾に腕押しで炎上だけ残るだけですよね、前から
ほんとすみません(^-^;

ビートルズとジョージマーティン? 例えが違います。正直いってビートルズを全然分かってらっしゃらないとお見受けしました。s氏の交響曲を1時間聴けた方々は、一般の方々ですよね?そりゃあ良い曲のおいしいところをつなげたようなら、音楽解ってない人の方が食いつくでしょうに。最近のつまらないポップスと同んなじです。音楽好きでない人向きなんですよ。まるでファッションのように。

音楽好きでない人を一時間釘付けにするすごい曲なんですよ。
分かってないなあ^^)。

構想にドイツロマン派あたりがすっぽり抜けていたというのには、笑ってしまいます。そのあたりを崇めていた人は気に食わないだろうな。

> 結果(S氏からの奇妙な注文に四苦八苦しながら)、自分が音楽大学で習った古典の知識を総動員し

これは映画監督の無慈悲な注文に、職人気質で必死に応じようとする作曲家の図式ですね。作曲家には職人の側面があるだろうから、つい、もてる力を注ぎ込んでしまうという。

ええはなしやな~

> (ゴーストライターというにはあまりに真面目で気弱そうな)N氏

「気弱」というのはどうでしょうか? 会見ではかなり低い声で一貫してましたし、テンポもつねに一定でした。気の弱いひとは、周囲に反応してしまいトーンもテンポも乱れるのではないか。
他人を責めない感じのひとだな、とは思いましたが。

こどものために買ったクラシック音楽大事典 が面白く
またプログレファンでとても親近感です

ところで、s/nはどうしてsがnに依頼でき、またその関係を続けられたのでしょうか そこがとても不思議です

ビートルズとジョージマーティンと比べるにはその点がまったく解せません ビートルズも大ファンなので

はじめまして。この騒動、詐病じゃないかとかNHKもグルだったんじゃないかとか断罪されるべき部分はありますが、話としてとても興味をひくところもありますよね。素人と職人的プロのコラボレーションによって個人1人の枠を越えた作品が生まれる可能性。なにかの化学変化かあるいは突然変異か。傑作か凡作かいやいや異端なのか?吉松さんもおっしゃってるようにS氏とN氏のコラボレーションをひとつの方法論として確立し一般的に応用できないものか?そこに新たな可能性を感じるのは吉松氏だけではないはず・・・
とりあえず映画化してほしいような今回の騒動ですね。吉松氏プロデュースで映画化とかどうでしょう。まさにこの方法論を活用して(笑)

>Jeffさん
>こんな例えはどうだろうか。レストランに行って席に着く。厨房では、肉を汚れた床に落とすがそのままそれを使う。大トイレしても手も洗わずに生魚料理する。カビの生えた調味料も構わずに使う。そして料理は仕上がり、皿は客の前に…。
>おいしかったと客は思った。最高の料理だったと客は思った。
>おかしくないだろうか。おいしければとにかくいいという問題ではない。

ゴーストさんは才能があって謙虚で音楽に純粋な人らしく、
そんな作り方してないみたいです。

通りすがりの一般大衆です。失礼します。

あの設計図(?)見たとき、昔NHK教育の「若い広場」という番組で、「オフコース」という当時売れていた日本のバンドのレコーディング風景をやってたのを思い出しました。

メインのソングライターは小田和正と鈴木康博という2人ですが、主旋律を書いた楽譜を持って来ないんですよ。で、ホワイトボードにコード進行とリズムパターンのアイデアを書いて、口頭で「Aメロはこんな感じ、Bメロはこんな感じ、サビはこんな感じ」とミーティングして、メンバー5人で音合わせしながら修正していき基本のオケを作って録る。そのあとで、それに乗せるメロディーを仮入れして、歌詞を書いて本歌を録音。SAXやギターの間奏jなどをさらにかぶせる。確かそんなやり方をしてましたね。

なんか、クラシックとは違う、そういう大衆音楽のバンド的音作りのアイデア手法なのかなと思いました。

下らない話かと思いましたが、感想までに書いてみました。
失礼しました。

交響曲第1番について、NHKの「魂の旋律」の中で某教授が珍妙な説明をしていたのが、噴飯物です。

まず、「悪魔の音程=トリトーヌス」。これは、確かに中世では避けるべき音程として扱われていたようですが、それを20世紀の作品に適用して云々するのはまったく意味不明。トリトーヌスTritonusとは三全音つまり増四度のことで、これはシェーンベルクの無調/12音技法の作品にはふつうに出てくるものですよね?

もっとウサン臭いのが「十字架のモティーフ」とやら。これは、よくバッハのカンタータなんかの説明に使われるんですが、こじつけの域を出ないお話し。まあ、バロック音楽について語るぶんには「昔はそうだったのかもね」とか「バッハに訊いてみないとわかんないもんね」ということになりますが、現代作品で、しかも作曲者が存命中の作品について、こういう説明をするのはなんだかな〜〜〜です。

「この部分に、ほんとに十字架の意味を込めて作曲されたんですか?」と新垣氏に聞いてみたいです。もっとも、仮に新垣氏が「そんなことは考えていませんでした」と率直に答えても、件の先生は「いや、あなたは無意識的に、ここに十字架の音型を置いたのですよ!」とか強弁するんでしょうね。いやはや、音楽学とか、音楽史って、こんなヨタ話をするものなんですかね。

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