フォト

Home page

お知らせ

  • らららクラシック@バルトーク〈管弦楽のための協奏曲〉
    ・NHK-ETV 6月16日(金)21:30〜22:00放送。司会:高橋克典、牛田茉友。ゲスト:関口知宏/吉松隆。
  • 音楽館
    作品視聴…映像付き
  • 楽譜出版《ASKS.orchestra》交響曲,協奏曲,室内楽などのスコアを電子版(PDF)で販売中。海外向け→**
    出版作品一覧→***NEW
  • 《図解クラシック音楽大事典》(学研)イラストとまんがでオーケストラや楽典から音楽史までを紹介する掟破りの入門書。旧〈音楽大事典〉の超大幅改訂復刻版。
    作曲は鳥のごとく》(春秋社)自らの作曲家生活を綴った独学の音楽史@2013年3月刊
    《調性で読み解くクラシック》(ヤマハ)調性および音楽の謎を楽理・楽器・科学・歴史から読み解く文庫版入門書。
  • ブラボー!オーケストラ
    ・NHK-FM 毎週日曜日19:20~20:20放送。毎月第1-2日曜日(+α)東京枠解説担当。
    ・05月07日/14日/21日

« なるほどS氏騒動 | トップページ | 雪の茶屋 »

2014年2月11日 (火)

まだやるかS氏騒動・演奏家編

Bachl まだやるのか・・・と言われそうだが、今回の佐村河内/新垣氏の曲に関して、演奏にあたった方々まで非難するような言説を耳にしたのでひとこと(にしてはまた長文多謝なのだが)

ポップスのように「音にされた(ほぼ)完成形」を最初からCDなどで聴けるジャンルと違って、クラシック系音楽の場合、作品が「作曲」されただけでは「楽譜」という単なる「記号の群」でしかない。それに生命を吹き込むのが演奏家の仕事だ。

例えばバッハの作品にしても、楽譜だけ見た限りではパズルのように入り組んだ設計図か暗号表のような代物だ。しかし、演奏家はそのパズルを解きほぐしメロディやハーモニーの絡み具合を感情の起伏とシンクロさせてゆく。その結果生まれるのが「音楽」であり、それを聴くことが「感動」という至福の快楽を生む仕掛けだ。

その際、演奏する側が「なんだかわけの分からない弾きにくい曲だなァ」などと思って弾けば、いかに大バッハの名曲といえど単なる「騒音」になり果てる。(ピアノの練習のアレな音のアレである・(^_^;。一方「深遠な作品なので心して弾かねば」という敬虔さを持って弾けば、そこに神の姿が立ち上ることすらある。それが「音楽」。(だからこそ、クラシック音楽の場合は、指揮者や演奏家が違うと同じ曲でも全く違った音楽になるわけだ)

今でこそ「不滅の名曲」というお墨付きがある曲も、初演の時は「まだ海のものとも山のものとも知れぬ代物」であり、書いた作曲家がいくら「これは大傑作である」と言い張っても、演奏する側は弾きにくい部分や理解できない処ばかりの「わけの分からない」曲であると思うことは実に多い。その結果、あまり調整が出来ないまま演奏してしまって初演は大コケ、失敗作・駄作という烙印を押されてしまう…というような例は、ベートーヴェンにしろチャイコフスキーにしろ枚挙にいとまがない。

そういう轍を踏まないように、今の演奏家たちや指揮者たちは、例えば現代曲の新作とか新人のコンクール参加作品などを演奏するときでも「全力で」演奏する。心の奥では「なんだか若い知らない作家のつまらん曲だなァ」と思っても「怪しげなヘンな作曲家だなぁ」と思っても、そういう偏見の加わった演奏をすれば、それはそのまま演奏のつまらなさに繋がり、結果初演が失敗することで新しい才能や名作を潰しかねないからだ。

今回の曲(交響曲)に関して指揮者の大野和士氏が、音をちょっと聴いたがそれ以上聞く気にもならず演奏する気にもならなかったと告白されているが、それは確かにきわめて良識的な見解だろう。しかし、そうやって演奏以前の段階で良識の壁に阻まれて闇に葬られた新作が膨大にある中、「新しい作品をできる限りいい状態で多くの人に紹介しよう」と誠意を尽くして演奏した今回の日本の演奏家たちの行為は、賞賛されることはあっても非難されるべきものではない。

ヨーロッパのクラシック音楽界では、200年も300年もの間、名作が埋もれている横で凡作がはびこっていたり、作曲家が生きている間は傑作扱いだったのに亡くなったら忘却されたり、逆に初演に失敗して作曲家は失意の内に亡くなったものの死後年月と共に名曲という評価がうなぎ登りになったり…という歴史と場数を踏んできている。その結果、今私たちが聴いている「お墨付きの名曲」があり音楽界の成熟があるわけなのだが、日本はと言うと本格的にオーケストラ音楽が定着してまだ100年ほど。自分たちの音楽をそうやって選び抜いてきた経験があまりない。

今の日本の音楽界は優れた音楽家を多く輩出しているが、ほとんどが「外国で評価されたから」「国際的な場で活躍しているから」というような「他力本願?」に左右される。そのため、本当に才能ある音楽家ほど海外に出て行ってしまい、一方で若い作曲家たちは国内で発表の場さえ与えられず苦しんでいるという現実がある。今、この騒動で日本の音楽界が直面しているのは、自分たちの国の中から不思議な形で生まれた「まだ海のものとも山のものとも分からない」作品をどういう位置づけで自分たちのものとし後世に伝えるかを「自分たちだけで判断する」正念場ということになる。
それが「痛み」を伴うのは今の流れから見て確実だが、それを超えてさらなる向こうに行くのが、今まで(そういった痛みを乗り越えて生き残ってきた)外国の「名曲」たちを享受してきた私たちのいわば義務だろうか。

ただし、はるかヨーロッパの音楽界からこれを見れば、(敢えて!敢えて例えるなら)100年以上遅れてチェコにおけるスメタナやフィンランドにおけるシベリウスのようなタイプの音楽の登場でわいわい騒いでいるみたいなものなので、「100年遅れてるヨ」と呆れられるのは致し方ないけれど。

ちなみに日本にも、戦後のいわゆる現代音楽の中に「名作」は数多くある。そして、多くの専門家たちが「傑作」であると「お墨付き」を与え、「賞」まで出して普及を務めた。しかし、それでもレコード化すらかなわず、幸運にもCDにされたものも今はほとんど廃盤…という冷たい現実がそそり立つ。そういう現実を見てきた目には、「お墨付き」くらいでみんなに聞いてもらえるなら苦労はないよなァ…とぼやくしかない。とにかく聴いてください、そして自分の耳で判断して下さい。それが「お墨付き」なのだから。

そもそも(繰り返し言うけれど)「作品」は作曲されただけではただの「音符の群」に過ぎない。演奏家によって引き上げられ高められ、そこで初めて聴衆のジャッジを受ける。そうやって人間の音楽文化は綿々と続いてきたのだから、その根底となる演奏家たちの「演奏行為」や聴衆による「評価の是非(ブレのようなもの)」そのものを否定してしまったらお仕舞いだ。

「不滅の名曲というお墨付きがあったのでベートーヴェンを聞いたがつまらなかった」でもいいし「専門家は誰もいいと言わない曲だけれど、私は個人的に傑作だと思う」でもいいし「曲はお粗末だったかも知れないが、演奏は素晴らしかったので感動してしまった」でもいい。そういうスクランブルな状態からこそ「未来」は生まれるはずだ。・・・ト、今回は少しマジメに。

« なるほどS氏騒動 | トップページ | 雪の茶屋 »

音楽考」カテゴリの記事

コメント

確かに。音楽に対するスタンスは色々ですが、これを機に互いに関心を持ち、日本の音楽文化が成熟していくことを願います。

大野さんの記事はとてもまっとうだと思います。ヨーロッパで常に「一流」と格闘している方の見解。重く受け止めなければなりませんが、他方で「誰でも聴衆を釘付けにできる」とも思いません。やはり、今回の騒動は新垣さんの卓越した才能、知識、技術、純粋な人柄あってこそ為し得た「事件」であり、現代音楽界にとってもかなり衝撃だったのではないかと思います。(記事を読む限り、大野さんは「佐村河内」作品を全体に渡って精査する前に、判断を下されているように感じられます。精査するまでもなかったんでしょうが、、、、)自分も当初全く大野さんと同じ印象を持ちましたが、今回の騒動でむしろあの作品の本質を真剣に考えることに図らずもなった気がします。

色々考えさせられる事件。自分も相当自分自身を見直しました。吉松さんにおかれましても、これまでのご自身を見直す良い機会だったのではないでしょうか。

さらなる創作活動の飛躍を音楽ファンとして期待いたします。ありがとうございました。

ソチでの「高橋曲」に対する、世界の観衆の評価も大変気になるところです。

「不滅」と邦題のついたシンフォニーがありましたねえ。
大野氏はインタビュー記事の後半で現代音楽を宣伝していますが、無理やりな感じがします。
現代の芸術音楽が商業音楽に負けてたまるかと思ってらっしゃる。
そこがそもそもの間違い。
子供を出してくるなんて、サイテー。
オーディオ評論家の故高城氏の雰囲気があるのがちょっと・・・・。

去年の今頃は、冨田勲さんの「イーハトーヴ交響曲」のTV番組が放送されて、相対するように佐村河内守氏の特番があって、強敵が現れたと思っていました。
まさに強敵で(^^)、CD売り上げが「イーハトーヴ」一万枚。かたや「HIROSHIMA」18万枚。コンサート動員数は「イーハトーヴ」大体7千人。「HIROSHIMA」よくわかりませんが多分7千人以上^^;)。その7千人以上に加わることが出来るかもしれませんでしたが、生きているうちには不可能かもしれない。「イーハトーヴ」より公演しやすいですからね。

S氏騒動、私も感動体験があり、その事実と虚構騒動の整理がついていません。確かS氏への賛辞をブログで読んだ記憶があり、再訪してみました。S氏関連の連作日記を興味深く読み、大いに納得しました。大変誠実な対応、偽りのない文章だと思います。
個人的な体験から始めると、S氏については、約1年前に自叙伝を読み深く感動しました。さらに確かめたく3枚のCDも聴きました。
「交響曲第1番」は70分を超える曲を最後まで聞かせる引力のようなものは凄いと思いながら、確信が持てず感動の一歩手前で?マークでした。他も聴いて確かめたいと他のCDにも手が伸びました。
「シャコンヌ他」は面白いと思いながらもどう評価してよいか分らず、まだ?マーク。つい2か月前に聞いた「ピアノソナタ2曲他」は好みとも合い感動しました。少なくとも演奏者の情熱が伝わり、被災者への思いも感じました。他にも聴きたいと思いつつ、今回の騒動で難しくなりました。
自叙伝では、交響曲第2番が完成とあります。しかも110分の大曲、これも虚構でなければ是非聴いてみたい。事実を知ったうえで最後まで聴きとおせる魅力があるなら、N氏の才能、構想力、傾けた努力は素晴らしいのではないでしょうか。演奏されないまま埋もれるのは惜しい。「あの感動は本物だったか確認コンサート」と称して新旧交響曲の演奏会を全国で開催すれば、話題性もあり大入りになるでしょう。オケが蒙った損害も少しはカバーできるのではないかと、不謹慎なことを考えています。
申し遅れました、吉松さんと同年代のシベリウスファンです。少し心の整理がついたように思います。ありがとうございました。

いつも興味深く読んでます。
全くその通りですね。寧ろ、大野和士氏もわかっているなら事件が発覚する前に指摘しろといいたい。
大野氏のコメントは暗に初演に関わったり、多く取り上げている大友、秋山両氏を批判しているともとれますね。

結局のところ音楽の中身に関して言えば
なんと言うか非常にケレン味のようなものに富んだ作品だったということのようですね。
人によってはそれをあざといと良識で突っぱねたり、逆に批評を恐れず我が道を
突き進む大胆さとその無邪気な作意をを評価したりというところでしょうか。
これはどっちが正解とも言えないような感じがします。
あるいはどっちも正解でもいいような気もしますが。
ただ一方の見方で一人の新人作曲家とその期待の作品ををクローズアップしようと
努力した演奏家諸姉諸兄を悪く言うのには俺も反対です。
そうそう演奏家の手柄というのもありますよね、音楽が本当に彼らのおかげでよく聞こえる。馬子にも衣装というか。ちょっと違うかもわかりませんが・・・・。
俺は今回の件、巻き込まれた音楽家皆さん、特に新交響曲の演奏に奔走された皆さんには本当におつかれさまでしたというか、どうか元気を出していただきたいと思います。
誰がなんと言おうがだまされた側に罪はないでしょう。
それにNさんのような教育者としてもちゃんとしていた音楽家ならやはりそんないい加減な曲を作らないでしょう。
立派に聴こえて当たり前だと思います。
Facebookで人づてに桐朋学園に辞表を提出されたということですが
難しいかもしれませんが、彼はやり直しのチャンスが在っても良いかもしれませんね。
しかしここまでのお人好しって、悪いですが本当にいるんですね。
最初は詐欺の共謀をしたと、楽界からの追放もそりゃやむ終えないだろうとも思いましたが、話を聞いてみるとずいぶん周囲に慕われている無類の好人物のようでなんだか心底気の毒です、なんか泣けてきますよ。


http://getnews.jp/archives/512941

良かった、退職は免れたようです。
良い学生さんたちです。

その節は、お祭り騒ぎの片棒を担ぐような真似をしてしまい、大変ご迷惑をお掛けしました
演奏家のみならず同時に創るの者への哀愁も感じさせる記事でした
先生のファンとして、これからも新しい曲を心待ちにしております
溶けていくような曲が好きです、お願いします!笑

ソチの高橋曲、今聴きました。

D-mollだったらまるきりシューマン(いや、ヨアヒム、ディードリッヒ?)ですね、、、

結局、作曲とは音の組み合わせから新たに自分自身を発見する行為という気がします。過去の語法でいかによく描けても、新鮮味がないのはなぜかわかる。不思議です。

そこらへんの単純なスコアの批評ではどうにもならない精神的な部分が作品の本質なのではないでしょうか。深くスコアを研究すると、独創性の秘密がどのあたりにあるのかはうっすら見えてくる。

過去の作品から喚起される様々な感情を統合するだけではやはり作曲にはならない。しっかり、音楽と向き合う必要がありますね。

これも「シューマンだ」って言って出したら話題になるのかなあ。それともこのままでもやはり注目されるのだろうか、、、引き続き気になるところです。

調性であろうと、無調であろうと、音楽と向き合いそこから自ずと湧き出る感情がなければ、意味がない。

そういう意味では、十二音だから、無調だから、知的操作をしているからというだけで、精神的なレヴェルで評価せず、シェーンベルクの深さを全然知らず、現代音楽を罵倒していた吉松さんも愚かですが、調性だから過去スタイルだからという理由で「やらせ」と決めつけてしまう態度(自分にその気が少しあったことは認める)もやはり愚かでしょう。

もう少し、芸術の本質を見つめて、精進したいですね。

http://www.youtube.com/watch?v=KTu7PHGuxmQ

吉松さんの音楽、文章、イラスト、すべての大ファンです。
今後も素敵な楽曲を世に送り出して戴きたいです。
才能ある若手の推薦もぜひお願いします。
それと、どうぞ長生きして下さい!大きなお世話でしょうけど(笑)
これからもYOSHIMATSU WORLDを楽しみに生きていきます。

(私は、過去ブログおよび過去コメントは読んでいません。
 以下のような内容は、とっくの昔に話題になっていると思いますが、
 まあ、それでも書きます)
--------------

現代には、電子音楽とインターネットがあります。
スコアの「実演」と「発表の場」を、比較的 安価に入手できます。
それは、現代の作曲家の助けにならんのですか?

「生身の人間が演奏する方がいい」ってのは、百も承知です。
でも、電子の実演・発表だとしても、ゼロよりは、はるかにマシでしょう。

何か吉松さん、ザンネンです。とことんその線で行かれるのでしょうか。本心でいらっしゃるのでしょうか。
大野和士さんの話では、あれはもはや作品と呼べる代物ではないようなことを言っていらっしゃるようです。聴くのを止めたとされるのは、「良識の壁」もあるでしょうが、もっともっとそれ以前の段階での心境によるものでしょう。それは、ある種、倫理的な事とも言えるでしょうか。
よって、「新しい作品をできる限りいい状態で…」のくだりは、この場合、観念されないことになります。
大野和士さんの発言に対して言い過ぎだとの声もあるようですが、自分の発言によってどうなるかくらいとうぜんよく分かったうえで敢えて言ってらっしゃいます。そこまでして声をあげないともう日本の楽壇では自浄できないと考えられたのでしょう。
結局そんな風土がこのたびのような一件を起こしたのであり、大野和士さんは、この一件に関してはもちろん、広く日本の楽壇にしっかりしてくれよと言うメッセージを強いて出されたのだと思います。記事よると、大野和士さんは日本の楽壇の動向もよく見ていらっしゃるようであり、日ごろ考えていらっしゃった事をこの際に言われたものでしょう。
指摘された関係者は引き下がれないところもあるでしょうが、おそらく内心では自責の念もあるだろうと思います。
別に人を貶めてやろうとして言われたのではありません。音楽界のために、とされての発言です。
関係者には素直に受け止めて欲しいです。

大野和士さんのような良識的発言すらとばっちりを受けるくらいの騒動の中、吉松さんのぶれない姿勢には本当に感心します。ただ、シェーンベルク以降の現代音楽を否定するのがー全てをわかった上でのー戦術だったように、今度の件に関してもその延長線上の戦術を感じるのですが、考えすぎでしょうか?

由貴さん
貴方の発言は今回の件の事件性のみを取り上げて、曲を一切見てない発言に思われます。

>大野和士さんの話では、あれはもはや作品と呼べる代物ではないようなことを言っていらっしゃるようです。
ごく普通の一般聴衆ですが、件の交響曲は(長大交響曲としては)かなり「聞きやすい」ものに思います。
それこそショスタコーヴィチの一部のものやペッタションのような暗黒系交響曲に比べれば。
それは映画音楽的とか大衆的で俗っぽいという評価もされやすいものですが、途中で聞くのを止めたくなるような曲ではない。

大衆的だから低俗でありもはや作品でない、聞きたくないというなら、チャイコフスキーやドヴォルザークは?
一部のクラシックおたくには「好きな交響曲は『新世界より』」なんて言うと初心者的とか言う人がいるのも事実ですが。
彼らが現代日本に生まれた作曲家だったら、その曲が駄作になるとでも?(評価されない可能性は高いでしょうけど…)

堂々と表に立たれているのはとてもカッコイイと思う。でもなんか藪蛇になってませんか?これだったら今黙りしているセンセイ方の方が上手くやっているように見える。江●さんの記事に引かれたりして矢面になったりすると、それはそれでフェアじゃないし。言われるべきセンセイは上に数人いますから。

上手くやる。。。
なんてことをぜんぜん考えてないところが
カッコイイんじゃないですか

今日は更新ないのかな。。。

細川さんもFBで話したようですね。無論、大野さんと同じ見地になってるようです。こちらも読み応え十分らしい。

元信者「絶賛しちゃったのは、楽曲が良かったわけではなく、演奏が良かったからです。」

いいわけも、ここまで来ると、清清しい。

吉松先生の曲(ピアノ曲)を遅ればせながら拝聴させていただきました。
まったく聴かずに、意見してしまい失礼いたしました。
音楽家の本質は、何も語らずともその音楽で証明されますね。
美しく、そして愛らしい音楽でした。
この問題にかかずらっているのがもったいないと思います。
ぜひこれからも素敵な音楽を生み出していってほしいです。

なんか反対論者がどんどん減ってゆくのが逆にさみしいです(w
いもさんのように最後まで皮肉る根性をみせてください

あとになって、私は最初から吉松さんの言うとおりだと思ってました
なんて絶対にいわないでくださいね

細川俊夫さんの文章に関心あります。どこかに貼ってありますか?大野さんとおんなじになるのは当然なんでしょうが笑

曲の評価については、「どのまな板に乗せるか」の問題な気がしました。
たぶん世の中にはまな板に乗ることすらない良曲・佳曲がごまんとある。

大野氏のような一流の芸術家の言葉を鵜呑みにするのも良いが、2流・3流あるいは芸術以前の大衆作品の中にも、どんなに我々の心を躍らせるものが多いことか知るべきだ。

「大野氏のような一流の芸術家の言葉を鵜呑みにするのも良いが…」
皮肉がお好きなのでしょうか?後出しじゃんけんとか言われる方は、四つに組んで話をされないように考えていらっしゃる?
大野さんの言葉をしっかり精読されるべきです。いわゆる「発表の自由」を侵されるような事は一言もされていません。発表の自由で保障されるものも内容の充実があってこそ保障されます。まあ「内容」について、言ってこられるでしょうが、堂々巡りになるのでお相手しません。

数々の現代音楽の作曲賞を獲られてる方が幸運にも知り合いでいらっしゃいます。
ほぼ無調音楽ですが、僕はその方の何とも言えない美しい世界観が好きです。
以前、なぜ調性の音楽を書かれないのかと質問しますと、「調性の作曲は結構苦手で僕が書いても臭くなるだけだから、なんとか無調でゴチャゴチャやってる」みたいなことをおっしゃっていました。
その方は、吉松さんの音楽にも興味を示しておられます。
もちろん大いに謙遜もあるとは思いますが、このような方の現代曲なら一生聴いていきたいと思います。潔くて、やはり、才能のある方は違うなと思いました。
音大出の方しか書けない音楽、独学の方ならではの音楽、色々あっていいと思います。

これから世に出てくるクラシック系の作品を楽しみにしています。
芸術、特に音楽は人を救えると思います。

細川俊夫氏の言葉はこれは非常に意義があるでしょう。考えさせられます。先生を落とすために書かれたんだとか権威主義に乗っかってるとか言って話逸らさないでね(笑)

度々コメントすいません。
大野和士氏の発言は初演リハに作曲者が全聾であろうと、立ち会わないのはおかしい、それを見抜けない演奏家にも問題があると、暗に初演者を批判しているようにとれます。
マスコミ、業界批判はともかく、演奏家を批判するのは問題だと思います。

>傍観者様
当方の言葉が足りず、誤解を与えてしまったようです。確かに私は皮肉は大好きですが、大野氏に対して批判したわけではないですよ。大野氏が「発表の自由」を侵すようなことを言ったとは一言も書いていません。ただ、一聴衆である私たちは「一流」の人の言葉に踊らされるべきではないと思っています。コメント欄にて、当該作品が駄作であることの根拠として大野氏の発言を引き合いに出しているととれる書き込みがあったので。それでは当該作品が名作である根拠を三枝氏や五木氏、許氏(そして吉松先生)の言説に求めるのと同じことではないかと思うのです。

僕は吉松さんも細川さんも聞きます。今回は細川さんの話に軍配をあげますね。
一作曲家が推薦した位で売れる訳ないと言う話もあるようですけど、ドキュメンタリーとかの媒体や商流では数名の支持専門家(指揮者、作曲家、大学教授、評論家等)の言葉をスパイス振るみたいに巧みに使ってたんだから、やっぱり一作曲家の言葉も重要な役割部品であったと僕は見てますよ。

>元信者「絶賛しちゃったのは、楽曲が良かったわけではなく、演奏が良かったからです。」
いや、吉松氏は楽曲が良かったという主張を崩してないでしょう。
「偽の音楽を演奏した奴も問題」という向きに対し、演奏家はその曲がどうだろうと本気で演奏するのがプロとして当然というだけで。

偽の食材を使った料理を絶賛した批評家の場合と違い、音楽なんて国や個人や時代でも評価なんて変わるんですし。
(もちろん今回はシェフが障害者という偽装はあっても、料理はホンモノ)

もちろん周りを欺いたS氏には罪があるし、障害者というエピソードを広げ売り出したメディアも問題。
ですが指揮者(譜面を読むプロ)は間違いなく物語でなく曲を評価したから赤字覚悟で取り上げたのでしょうし、指揮者のもとに演奏した奏者も非難される言われはない。

今回の件、妙に気になるニュースで有り、また他の音楽家の方々が佐村河内氏と新垣氏の事件とそれによって生まれた作品に関してどのように感じられているかも気になり、
吉松隆さん、細川俊夫さん、大野和士さん、伊東乾さん、川島素晴さんなどのコメントを読みました。
正直申しまして、「評価基準」の違いや或いはその作品を隅々まで聴いたかそれとも断片的にしか聴かなかったか等によって、曲に対する評価は大きく分かれるものの、
その中で語られていることは、端から見ていますと(曲の評価の為の「材料」となっているものでさえも)そう大きな差は無いように感じてしまうのですが、
激論を交わされている皆さんはどうなのでしょうか?

要は、事件や曲に対して、上記の方々は、全員本質的には「同じ」事を言っていて、しかしそれは「音楽家としての良識」から評価しないという方々と、
しかしそれを知った上で且つ彼らの曲を評価したいという吉松さんや良かれと思ってその曲を演奏した方々。

正直申しまして、コメントを読めば読む程、細川俊夫さんが言われる「音の織物を聴く」事が出来「そうした音楽をちゃんと聴いて批評できる批評家や作曲家」の中に吉松隆さんは含まれている、と感じますし、
そもそも、川島素晴さんが言われるように、「評価基準」が違いますし、吉松さんのコメントを拝見する限り、「現在生まれる音楽として、過去の書法を参照して紡がれた交響曲という存在を認める立場」で評価されたのだとすれば、
他の音楽家の方々が評価していないからと言って、吉松さんの「不明を断じる」のは、「それもお門違い」と、私も思います。

なんとまあ、細川俊夫さんまでこの事件に関して
意見表明するとは。
しかし、音楽の中身をどう評価するかに僕もとらわれてこの事件の非常に大事な部分を忘れていました。
現代音楽と調性音楽という対立軸の方に話が流れていっているのを危惧しますね。
はっきり言ってこういう両者の下世話な場外乱闘というのは続いていった方が世間の好奇心をつなぎ止めるという意味で双方に有意義だと思いますよ。
島田荘司さんが本格推理と社会派推理小説について語るようなものです。

皆さん本当に大事な問題を忘れているんじゃないか、あるいは吉松さん初め推薦人の責任論を問う以前にその前提となる疑問についてですが、まあS氏が話をしないようだから何とも言えないし、嘘つきの言うことは信用できないし大体何があったかはおよそ想像がつくもののどうしても釈然としない点が一つある。
それはS氏は交響曲だけではなく(人に書かせたのだが一応コンセプトデザインをしたということで)、自著を書いた文筆家だと言うことです。
これ興味深いことに吉松さん御自身も音楽の批評活動を含めた実に才能のある文筆家でいらっしゃる。
吉松さんからみた文筆家S氏というのはどうだったのかというのが非常に気にかかる。
あとこの本、本当にこのS氏が書いたのかどうか、それにしても今となっては作曲家の虚像であるらしいのだが、よくこんな壮大な人生のドラマを嘘でも書いたものだなと感心します。
彼は自分がヒロシマ原爆の被爆の二世だかで数々の体調の不調があって耳が聞こえないのもその一つではないかとか書いていたという話ですが、そこに来て2011年の福島の原発事故があったわけですが、俺も彼のプロフィールのこの部分非常に変だと実は思いました。いわゆる原爆症として知られる症状の一つにあまりこういうものはなかったように思うのですが。
特に福島の原発事故以降非常にこの点違和感を感じていました。音楽の方はそこまでわかりませんが。
吉松さんもおそらくS氏の本を読まれたと思うのだが、吉松さん自身、優れた文筆家で、本もよく読まれ、それこそ推理小説のファンで大変聡明な洞察力のある方だと思いますが、それでもこのS氏の本にころりとだまされたと言ったら失礼かもわからないですが、よく吉松さん初め、業界筋、音楽家たち、それこそ三枝さんもいい加減、賢い人ですが、皆だまし仰せたものだなとこちらの方に感心してします。
むしろ音楽を推薦したしないより、こういう人間の心理的な死角にまんまと入り込んでみせたS氏というのは希代の詐欺師です。
俺は本当に驚くべきはこちらだと思うのです。
吉松さんは音楽の方は見事に本質を看破したのに(さすがです)こちらはあまり敢えて意地悪な見方をしなかったというか、疑って掛からなかったようで、非常に意外です。
実際俺もすっかりここまでだまされていた訳ですが。
これ、本当にS氏一人で思いついて実行したことなんでしょうか、この事件、本当に音楽の美意識とか、審美眼の有無の論争とかで水掛け論に終始してほっといて良いんでしょうかね。
世紀末叙情主義を名乗った吉松さん、ポストモダンを掲げた三枝さんの所に推薦を願い出るなんてよくS氏一人で思いついたものだなと疑問に思うのは俺だけでしょうか。もっと誰か後ろの方で糸引いているような感じがする。
これ絶対変ですよ。なにか入れ知恵があったのではないか。
本当に彼はそんなにクラシックの業界にくわしいひとなんでしょうか。
俺も音楽の内容に関する専門家諸姉諸兄の業界を二つに割るような論争には興味を失いました。というかこんなことにすべての人の目が向いたらまずい。
もうすこし純粋なこの出来事の事件性に目を向けるべき何じゃないか。しかし作り話にしても自分の音楽を演奏される機会を求めて敢えてゲーム音楽の方に進んだなんて話もよく作ったものだと感心します。

超長文書くのもいいけど書きながらアレコレ考えてないか(当然吉松さんの事ではありません。念の為)。結局、論旨もはっきりしてないし、話をゴチャ混ぜにして理解しているなって事が見える。目的は他のコメント沈める為なのか。
吉松さんがこうして言論の自由市場を尊重しておられる事、これ自体は人間の信用ができるし、今後も耳を傾けて行きたい。鞴であった者にあっては、己の発した言葉に誤りはなく今もそれは変わらないとするのか説明する義務がある。それなくして彼らの言葉を聞く必要はない。

高橋大輔選手の演技と共に曲の評価、大変楽しみです。

ネットで何度か聴き直しまして、最初はシューマンそっくりで新鮮みないなあと思いましたが、何度か聴き直すうちに良さが感じられるようになってきました。

もちろん、現代作品として音楽史的な評価にはならないと思いますが、多くの同時代人の心をつかむ力はあると思います。

注目いたします。

あの程度の長さの文章
超がつくほど長いと思いませんがまさしくいろいろ考えながら書いております。
要旨は単純で、この出来事に関して考察が音楽をどうとるか、
あるいは推薦した人間はこの事件が起こる以前にどうしてこの音楽を
過剰に賛美したのかということはもうあまり意味がなく、
もっと多くの人を巻き込んだこの事件の大掛かりなしかけのようなものにもっと目を向けた方が良いのではないかということです。
音楽の内容に関する話はプロアマ問わず言った言わないの水掛け論に終始しており完全に意味がないと思います。
この詐欺事件が多くの人に心理的なトラップを見事にかけたという事件性の方をそろそろ皆目を向けるべきでこの吉松さんのページで彼の推薦の責任なんか問うのはもはや不毛です。あまり出てくる意見も面白くない。
俺たちは皆良い大人なんですからたとえ見事にだまされて感動してしまったにせよ、
そろそろ自分自身で気持ちの整理をつけて事件以前の自分に戻るべきです。
俺がだまされたのは、人のせいだとか、関係ないけど人を責めるのが面白いからここで憂さ晴らしに書くとか言うのはやめた方が良くないですかね、紳士淑女のたしなみとして。
この吉松さん以外のページでも同じこと。
責任論を俺たちが論じても意味ないですし、もしそうならしかるべきところからしかるべき処分なりがあるでしょう。
俺もすっかり冷めました。吉松さんの交響曲6番を早く聴きたいです。
楽しみにしております。

http://www.huffingtonpost.jp/genron/samuragouchi-niigaki_b_4758277.html
この記事を書かれた方がどんな方なのか存知ませんが
一番うならされた記事で、場違いを承知で紹介させていただきます。
とてもうがった良識的な見方だと思います。
俺がここでどうこう言わせていただくより、よほど良い。

この件はもう時間が解決することでしょう。
お騒がせしました。
吉松さん、これから応援させていただきます。
ありがとうございました。

なんかどっかの組織の人のよう。
その引用は対抗派がよく掲げててツブヤキで意図的な感じで拡散させられてる。
その文末には、結局小人物さを窺わす事が書かれてる。なんだか曲の質についてこれから語るような人間はバカにしてやろうというところだろう。そんな視点に関心が向いていくとは本人もそういう事してきたんだろうかと想像する。
吉松さんの長文は全き長いとは思わない。主張に従うかは別として、まだまだ大いに読みたい。しかし、ただ冗長なコメントは数行、否、一文くらい読んで御免だ。まず間違いなく誰も目を通さない。そう言うと、かの曲と同じ性質なのかもしれない。

この問題の論点って、「耳が聴こえない被爆者二世が作った」という「嘘」で作品の価値を不正に高めたってところなのでは?
だから「騙された!」ってなる訳で、これがなければ価値の高さ低さの問題など起きていないはず。
この曲よりも陳腐な曲なんてそれこそごまんとあるのでしょうから。
「吉松さんやメディアが持ち上げるほどそんなに凄い物じゃないよ」って話だった訳で、それを「駄作だと思ったら少しでも良い作品にしようという努力もせずに闇に葬るのか」とかいうのは論点のすり替えだと思う。
S氏の逸話を聞くに、矢沢永吉だなどと話題の人だったそうだが、暴走族の頭だったとか言っていたことから「虚言癖なのでは?」と信用が持てないのが原因でデビューさせなかったとTVでやっていました。
件の指揮者も、「これがベートーベン?」という不信感からの拒絶だっただろうと思います。
海の物とも山の物とも分からない物、だったのではなかったのです。
「吉松さんやメディアが持ち上げるほどそんなに凄い物じゃないよ」という評価をしたのです。

takashiatota氏コメントで参照させている記事の筆者は、S氏の書いた指示書なる物を「シュトック ハウゼンやリゲティが電子音楽の作曲のためにエンジニアに渡したものとよく似ているよう感じた」と言っているが、この筆者のご見識はこういうのか?
それと、最後の「ここまで読んできた人には分かるとおり、そんなキャンペーンに乗る人に限って、音楽を何もわかっていないものなのだ」というのがめっちゃ笑える。
この筆者は音楽どころか、何も解ってない?
この最後のサゲで笑いを取ろうとしてるのか?

例えば、マーラーの交響曲第10番(補筆完成版)を彼の最高傑作と考える人が、マーラーの人生についての何らかの知識抜きで愛聴することはまず考えられませんよね(しかし、真相は当事者しか知り得ませんが)。
勿論ベートーヴェンの代表作の多くについても、我々が聴く時には無意識に彼の人生のエピソードと不可分に結びつけています(ベートーヴェンも、本当は耳が聞こえていたという説もありますが・・・)。ロマン派以降の交響曲の多くは典型的ですし、ゴッホやムンクなどの有名絵画だって、そうです。

S氏の物語を深層心理で感じながら聴いていたこの交響曲、これからはN氏の物語で愛せる曲として世間で受け入れられるようになるかどうかが勝負の分かれ目ですね。今の価値観では駄作でも、50年後、100年後の価値観では再評価され傑作として万人に受け入れられているかも知れませんしね。世間の「常識」は移ろいやすいので・・・。

しかし、不倫やロリコンやマザコンや倒錯愛や酒乱や麻薬やDVや嘘など、道徳とは程遠いゴシップ・泥まみれの芸術家の人生から、崇高な傑作の多くが生まれる。芸術家(芸能人、スポーツ選手も)には一般人の道徳や正義感は通用しないケースが圧倒的。

そして芸術の本質とは、つくづく「騙し絵」なんだと、今回の件で身に沁みて実感するばかりです。

件の指揮者は「ベートーベンの再来?」という不信感からの拒絶だっただろうと思います。「んな、ばかな」という気持ちが、それ以後の行動を決した。
海の物とも山の物とも分からない物、だったのではなかったのです。すでにその指揮者にとっては、怪しげなものだった。


もし、埋もれていた未発表のベートーベンの作品が見つかり、それを伝えずに件の指揮者に見せた場合と、伝えて見せた場合はどういう反応の違いがでるか。

「新発見のベートーベン作品」として嘘をついて現代作曲家の作品を、件の指揮者に見せたらどうなるか。

妄想するのは楽しいですね。

Sの指示書とシュトックハウゼンやリゲティのを同じように言うなんて、これって評論家Kセンセイと同じ程度か。それかKセンセイをディスってんのか。それなら随分質悪いよな(笑

ここには音楽業界の方々も多く出入りされているようですので、
感想をお聞きしたいのですが、下記音楽家の真の犯人は
音楽業界関係者であるというのは本当なのでしょうか・・・。


「佐村河内守別人作曲問題ーこれを機に作曲家へのゴースト強要の音楽業界の悪慣習を廃止せよ!! この問題をウヤムヤにするな!!」
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/02/post-825d.html

「続、佐村河内別人作曲問題ー「図形楽譜」に関する解説と「売るためには」作曲家作詞家の人権を蔑ろにしてもかまわないという音楽業界の体質の問題」
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/02/post-664e.html

「新垣氏の処分は不当!! 桐朋学園は勘違いしている。好んでゴーストやる作曲家などいない。責任はゴースト強要した業界関係者にある」
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/02/post-bb80.html

故意か故意でないのかは判断しかねますが、大野和士氏の投げた玉を打ててません。

「彼(注、詐欺師S)と一緒になって、CDやコンサートを創ったマネージャーやプロデューサー、指揮者、演奏家、批評家たちも、真の音楽家でもないし、音楽を愛している人とはとても思えない。人間には『勘』というものがある。この人が本物か、偽物か、その音楽が本物か偽物かを、直感的に見分ける『勘』である。それを持った人たちは、そう簡単には、怪しい人間や音楽にはついていかないだろう」(世界的邦人作曲家H)

その世界的邦人作曲家H氏も確か広島出身で、「HIROSHIMA」という大がかりな作品を書かれていますので、複雑な心境かと思います。

今回の事件についての著名人の言葉を引用するのならば、私は、作曲家・編曲家・作詞家 で音楽プロデューサーでもあるRevoさんの発言に、最も真実味を覚えます(以下 スポニチアネックス 2月13日(木)9時46分配信記事より引用)。

「作品が作品の本質以外の部分で評価される世界には今更だが寂しさを感じる。ある種の人気商売にとっては、付加価値の方が商業的なプライオリティが上になってしまっている。それは僕如きレベルのクリエイターでも日常茶飯事で直面する問題だ」

「僕は恐らく最高の音楽が生まれるなら悪魔に魂を売っても良いと思う側の人間なので、したり顔で誰かを責めたりする気には到底なれないな。でも、結局のところ【最高の音楽】なんて胡散臭い代物は主観に大きく依存する概念だから、嘘を吐いても吐かなくても砂上の楼閣であることには変わりない……。でも、目指そう最高。地球、銀河、いや全宇宙で!熱い少年の心で僕は頑張る!」

ここ数日、NHKラジオ番組にインタビューコーナーがあちこちにあって、面白い人が登場しています。たとえばミュージシャンのROLLYさん、俳優の藤岡弘さん。苦難の過去を語っていますが、私は斜に構えてしまって素直に聞けません。
まあ、彼らは立派な業績があて、実はその裏にはこんな困難があった、ということですから業績が先なので問題ないのですけど、何か釈然としない^^;
佐村河内守氏さえ居なかったら、こんなことには・・・・。

 ある意味 S氏偽作曲事件があったからこそ、不見識や審美眼ない「専門家」が露呈し、日本の脆弱化した楽壇が浮き彫りになった。それに、西洋音楽が未だに理解できない日本の姿も判った。この点は改善に繋がる足掛かりになればいい。禍福だ。
 ただし、情けないのは、フィガロ等の有名紙により日本の音楽事情としての低レベルを結構報じられた事だ。

不見識や審美眼のない「専門家」が多いのは、別に現代の日本だけの話ではなく、古今東西どこの国も同じではないでしょうか?

全体的に皆さんは音楽に限らず「専門家」を買い被りすぎですね。「専門家」の不見識や審美眼のなさはある意味当然じゃないですか。第一「専門馬鹿」なんだから視野が狭い。今回はたまたま運良く騙されなかった「専門家」も、別なことでは簡単に騙されやすい資質を基本的に備えていると思います。それに、「専門家」はアカデミズムの学閥や人脈に縛られてがんじがらめで自由な発言の出来ない可愛そうな人種だと思っといたほうがよいです。業界仲間やお金のために提灯記事もよく書きますしね(笑)。

一例を挙げれば、「専門家」の誰もが信ずる弦楽器のピリオド奏法なども、「専門家」仲間内での完全な「でっち上げ捏造奏法」だと個人的には思っています。

音楽以外の分野でも、原発の安全神話なども典型的な専門家による「でっち上げ捏造」でしょう。

ところで、今回の事件とほぼ時を同じくして、STAP細胞のニュースで一気にノーベル賞候補となった時の人、O女史が執筆した論文に捏造疑惑が持ち上がっていますね。マウスのリンパ球に刺激を与えるだけで、体のあらゆる細胞になる多能性を獲得するという夢の様な成果は本当なのかとの疑惑です。

仮にもし捏造だとしたら非常に残念なことですが、だからといって若い彼女の研究の可能性を称賛した山中教授を、「捏造を見抜けなかった」と非難することは誰にも出来ないはずです。

虹色LED様
議論する時間を持合わせないが、貴方は問題の本質を見ていない。それに貴方の考える「専門家」像は歪んでいる。
なお、山中博士をこの問題に持出すとは笑止千万。まったくパラレルに考えるものではない。博士自身がその一件につき検討されたか。正しいという前提があったうえでの話を博士はつねに慎重にされている。コメントをよく確認されたい。
穴に落ちている人々を見ていると極めて特徴的な思考傾向があることが一件によりよく判った。どうやらそもそも細川氏らの指摘されている言葉が届いていない(理解がなされていない)ようだ。

匿名様
そうこなくっちゃ!です。どなたかが喰いつかれると想定しわざと挑発的に書きましたから。おっしゃるように山中教授は何も悪くないです。

大野和士さんや細川俊夫さんの発言に私が一貫して違和感を覚えるのは、優等生的過ぎるということ。芸術が生まれる瞬間なんて、いつの時代だってそんなきれいごとだけではないでしょう。
それと、彼らは、なぜ騙された指揮者、演奏家、批評家たちの人間性を、そこまで悪くいえるのでしょう。そんなにあなた方は清廉潔白なのか。そんなにあなた方は偉いのか。
私には騙された人たちとコインの裏表にしか見えません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

間違いを犯した事の無い人というのは、何も新しいことをしていない人のことだ。

常識とは十八歳までに身につけた、 偏見のコレクションのことをいう。

無限なものは二つあります。
宇宙と人間の愚かさ。
前者については断言できませんが。

神の前で人間は等しく賢明であり、
神の前で人間は等しく愚かである。

           アルベルト・アインシュタイン

虹色LED様ほか様
大野氏や細川氏のこの一件につき発せられた言葉をご覧になったか。本来は原典に当たるべきだが、ちょいと探せば転がっているので熟読されたい。ことに細川氏言説は、FBのものが重要。
両者ともに大変丁寧に説かれている。諄いくらいだ。どんな人にも理解されるようにということだろう。
「優等生的過ぎる」か否か、そんなの知った事じゃない。「なぜ騙された指揮者、演奏家、批評家たちの人間性を、そこまで悪くいえる」か、言われてもやむを得ない程の誤りであるからだ。そこまで言われなければ気付けないと言うこともあるだろう。「騙された人たちとコインの裏表にしか見えません」、全くそういう問題ではない。だから貴方は問題の本質を見ていないと言っているのである。
とにかく、「優等生的過ぎる」などと己を卑下する事なく、素直に精読し、よくよく理解した上で批判する必要が万が一あるとすればしたらいい。
もし作曲家N氏が己の名で作曲するのなら、あんな曲「HIROSHIMA」は書かなかったはずだ。否、書けなかったはずだ。ことに最後の部分などは恥ずかしくて堪らないだろう。各所に聴き所はあっても、あんな最後では話にならない。「お粗末」でなくて何か。結局、こういうことがわかる感性があるかないかと言う事でもある。※ただ似ているからダメだと言うレベルではない。
あれを認める「専門家」はマーラーをいったいどう評価しているのか。演奏に熱を入れてた指揮者O氏は、マーラーの交響曲第3番をこれまでどのように考えていたのかぜひ訊きたい。
大野氏にしても細川氏にしても、日本人と言うよりも、これは世界にいる音楽家、それも第一線に立つ音楽家の視点と言える。無批判に受け入れる必要はないが、それなりに傾聴する必要はある。
ごく一部の不見識な「専門家」と距離を置いて無関心を貫いた大半の真っ当な専門家がいる日本の楽壇、そこに憐憫の情で飛び付く一般人、こういう状況が続けば、第2第3のSが出てくるだろう。謙虚に自省すべきだ。

音楽の善し悪しを音楽の専門家として見抜くと言うのと
今回の事件全体に関して音楽の背後に詐欺の存在が在った事を
音楽家として見抜けるとかどうかと言うのは完全に別問題ですよ。
前者に関しては何を言っても良いが
後者に関しては犯罪捜査の専門家の仕事の領分で
やはりO氏やH氏の言い方は自分の仕事の領分を明らかに逸脱した
事を言っており、むしろ音楽の専門家でない世間一般の
常識からすると噴飯ものです。
あり得ない。
これはやはり報道とか犯罪捜査で明らかになる事です。こちらはむしろ吉松さんの方が専門に近いですね。
やはり両氏は口を慎むべきでしょうね。
あたかも詐欺まで我々音楽を本当に知っている人間は見抜いていたのだと言わんばかりの言いようは(facebookは俺も読みましたよ)過ぎはるは及ばざるがごとしで
我々一般のリスナーが音楽の専門家でない事を良い事に大きな事を言い過ぎている。
佐村河内が犯した詐欺と言うのはまさにこういう精神が出発点になっているのです。
むしろこの両氏の方がこの希代の詐欺師に近いのだ。

「匿名」は山中教授のことに触れてないが――敢えて追い込むことやめたんだな――虹色LEDは山中教授のくだりあれはマジで言ってるわ。取り繕うのに必死。可愛いもんですわ。
下のTはもう全然不要。勉強して出直しな。誰が何言っててつまり「……」と言ってるって要旨まとめノート作る事から始め。佐●●内の指示書をシュトックハウゼンのようだと言った不見識●●の駄文がいいとか言う輪をかけた●●だからな。あんたなんかに味方されたら吉松さんも甚だ迷惑だよ

匿名様

>大野氏や細川氏のこの一件につき発せられた言葉をご覧になったか。

コアなクラシックファンの悪い癖ですね、専門家の意見の鵜呑みって(宇野味って言葉もある)。それでは障がい者が作曲したというバイアスがかかっていた一般の聴衆と同じですね。O氏やH氏の「こりゃ駄作だ」というお墨付きバイアスがかかって判断してるってことの違いだけですね(笑)。

私は事件になって初めて興味を持ち、この交響曲を最初からN氏の作品として聴きましたが、通俗的だけど楽しめるいい曲だと思いましたよ。今後「新世界」「展覧会の絵」と同様には楽しめそうだと感じました。無論、日頃愛聴するブルックナーやマーラーやシベリウスの傑作との優劣なんて野暮なことを考えずに純粋にこの曲としてね。指揮者の色んな解釈が成り立つと感じましたし、バイエルンRSOやBPOがVPOが演奏したら、更に上質な満足感を得られるんじゃないかとも思いましたよ。自分でもアマオケの一員としてこの曲の演奏にいつかは参加してみたいとまでも思いました。例えばショスタコの5番と一緒に世紀の問題作としてプログラムに乗ったりしたらですが・・・。

因みに、山中教授の件はマジで言ってますよ。もう一度書きます。

・・・仮にもし捏造だとしたら非常に残念なことですが、だからといって若い彼女の研究の可能性を称賛した山中教授を、「捏造を見抜けなかった」と非難することは誰にも出来ないはずです。・・・

何か間違ってますか?
ふたつのニュース、作品や研究の真価以外のところでマスコミの話題になった点がよく似ています。

Vさんや、匿名さんのコメントをみて思ったが
昔だったら2ちゃんねるでこういう話題のスレッドはいくらでも伸びたんだろうが
最近は一つのスレッドがたっても少しも伸びないらしい。
2ちゃんねるで今回の一件がどう受け止められているか興味があって先日
久しぶりに見てみたが(ここでの書き込みが一部、昔の大型掲示板をあまりにも連想させるので)今の2ちゃんねるのユーザーと言うのは至っておとなしく物事の受け止め方が昔と比べるとまともで演奏した音楽家や推薦した人間に非があるなんておおっぴらに言う人はまるでいなかった。
いたとしてもこの吉松さんのブログに書き込んでいる人たちほど激しくない。
大型掲示板は昔と全然雰囲気が変わってしまった。Vさんや匿名さんって言うのはああいうところに居場所がなくなった人たちなんだろう。
今はみんなまとめサイトで二次情報を楽しみますからね。
多分このブログを炎上させようと思ってがんばってるんだろうが、見ての通り吉松さんは音楽家にあってまれなほどまともな方なので残念ながらそうは行きませんでしたな。
今はネットのユーザーはそれこそtwitterやらgoogle+やらFacebookやらいくらでも
別なところでコミュニケーションをとりますから。
もうそろそろ何を求めてきているのか知りませんが、吉松さんもこの騒動に関しては記事を書く事はないでしょうし、あきらめたらいかがでしょうかね。
それにしてもOやHの書いた文章の方がよほどねらーみたいで病的なのには驚きました。
twitterのタイムラインにおける彼らの主張に対する反応はすこぶる悪いね。
あのような主義をとる人間は多分twitter、facebookの両方においておよそ三人しかいないようですね。O,HにくわえてI.
まあ三人が三人とも2ちゃんねるでたたかれている事。
いかにContemporary musicというのが世間で嫌われているのか俺もいやと言うほど知りました。正直哀れだ。
俺は結構FMとかテレビで聴いてる方だったんですけどね、現代音楽。

もういい。この問題の“病理”が明らかになったから。やはり全くの徒労だった。もっとも、これらを第三者がご覧になる事は有用だろうと思い、納得する。このままだとノイローゼになってしまう笑
言いたくはないが、話をするためのベース自体が対手にはない。
賢者の貴重なご意見を発しても、耳のない者には所詮は聞くことはできない。仮に聞けたとしても理解できなくては意味がない。
故意に聞けない・理解できない振りをしてる?そうとしか思えない。本当にそこまで曲解できるものなら、それも特殊な才能だろう。しかし、そういうのには近付きたくない。
多くの真っ当な人がとった無視・無関心が正解であった。時間を無駄にしてしまった。後悔。

匿名様

孤軍奮闘お疲れ様でした。
貴重なご意見を賜り感謝いたしております。
じつに面白かったです。
くれぐれもお体を大切にされ、これからも益々ご自愛ください。

結局、音楽に対する評価は個人の好き嫌いにどうしても左右されるものでしょうね。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。
例えそれが他人の意見と違っていたとしても、「専門家」の批判にさらされたとしも、
それぐらいでもし「嫌い」になるなら、それは始めから「好き」ではなかった、という事。
そして、互いに違う感性を持った者同士が互いを「不見識」として批判し合うのは、不毛です。
大野氏や細川氏と同様、一連の事件を批判している音楽家伊東氏は、
佐村河内名義の曲を絶賛し協力した「専門家」の名前など口にしたくもない、
と言いながらも、同じくそれを評価して見せた吉松隆さんのお名前は口に出されています。
それが全てです。以上。

P.S. 最後に、ある方の独り言をご紹介します。

細馬宏通氏
http://togetter.com/li/627447

ある人の呟き…「音楽の善し悪しを見抜く力とその背後に今回のSのような詐欺師とその実行した詐欺とがあるかどうかを見抜く犯罪捜査のような眼力は全くの別物だし、両者を捉えられるかどうかと言うのは全くの別問題だ。HやOはもういい加減大きな事を言うのはやめろ、非常識だ」注)一部修正済み
HはんやOはんは全くそんな事言うてへんのになあ~。誤解も誤解やわあ~。どないな考えしたらそないな事言えるんやろかなあ~。
CD売るのにネチっこくステマしてたんが今度変容したんやろかあ~。
そら、「あの障害の人が作曲してへんかったさかいにもうCD返品するわ」って言えへんもんなあ~。曲は一流やさかいに返品騒ぎにはさせへんでって流れにでもする気なんやなあ~。ご苦労はん。
世間様は、HはんやOはんを支持する声が断然なんは当たり前や。ここは井の中の・・

 答えが出ましたね。
 Nさんの出した手記に、HIROSHIMAの制作趣意があります。
 これを読んでもまだ評価する人がいたら、よほどおめでたい人ですね。そんな腐った耳や感性で吉松さんの音楽がイイってことになると、吉松さんの音楽の評価が下がってくる事になりますね。
大野さんクラスだと、1音聴いただけで「これはダメだ」と分かるんでしょうね。
見識とか感性とか言われてたけど、もっと初歩的な問題なんでしょう。分からない人はもうどこまで行っても分からない、恥ずかしい事です。そんな人にずっと囲まれてるのは、本心は迷惑な事なんでしょうね。

この事件、自分なりにもう一度思考を深めてみました。

最近のコメントでは、基本的には「通りすがりのド素人」さんの意見に賛成です。

吉松先生も大野先生も細川先生も「交響曲第1番《HIROSHIMA》」も大好きな優れた耳の持ち主がいても、何ら不思議ではないですし、むしろ原理主義者としてだけでなく色々なモノサシで感じ考えられる能力は、人として大切な要件ではないでしょうか。

交響曲第1番《HIROSHIMA》を賞賛し顰蹙を買ったひとりである許光俊氏は、他方では大野和士氏の指揮を大絶賛しています。あまりにも説得力のある評論であると感じたため、引用しご紹介します。

・・・・・・ところで、クラシックの世界でもっとも重要な恋愛の音楽と言えば、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」であろう。今年に入って早々、すばらしい演奏に出会えた。大野和士による新国立劇場での上演だ。ことに第2幕。常識よりずっと遅いテンポで紡がれる音楽の美しさ、悲しさは、比類なかった。まさに今この瞬間に恋人たちの間で言葉が交わされるようなリアリティでもってひとつひとつの言葉が、楽器の音が発せられた。こんな「トリスタン」、聴いたことがない。
 私はバレンボイム、ラトル、ハーディング、ゲルギエフなど現代の名だたる指揮者が演奏する「トリスタン」を各地で聴いたが、大野を上回る者は誰もいない。唯一サロネンのみがドビュッシーを思わせる繊細な美しさで印象的だったけれど、作品の本質に沿った演奏とは言い難い。ワーグナーならではの感情と観念と感覚の三位一体という点で、現代最高の「トリスタン」指揮者は大野だと百パーセント断言できる。かねてより彼は「トリスタン」を大得意にしており、ドイツのカールスルーエ、ベルギーのブリュッセルでの演奏もすばらしかったが、東京ではさらに解釈が深まり、幸福の極限であるがゆえに不幸であり、生を突き詰めたがゆえに死に到達するという究極の矛盾を表現した。ただの甘美な陶酔にとどまらず、情熱の爆発に終わるだけでもなく、深い精神性を感じさせる「トリスタン」演奏は、これ以外にはフルトヴェングラーの録音しか知らない。最後の「愛の死」は、なかなか満足すべき強さを持った演奏にお目にかかれないが、大野のはかつて聴いたことがないすばらしい浄化の音楽だった。生きているうちにあと何回、この指揮者の「トリスタン」が聴けるか。ぜひとも条件を整えて録音も行ってほしいところだ。・・・・・・許光俊の言いたい放題「死にたくなる『トリスタン』(2011年02月03日付)」|HMV ONLINEより引用
http://www.hmv.co.jp/news/article/1102030078/

ところが、今回の佐村河内作品ゴーストライター問題が、障がい者、被爆者、震災被災者、一般の音楽愛好家など多くの方々を冒涜し、裏切り、傷付けたことは、作品の好き嫌いや優れた耳か腐った耳かとは別次元の話であり、紛れもなく重大な「罪」です。許光俊氏も途中からは真実を知っていたという話も漏れ聞こえてきますが、もしそうなら、公表しなかった態度は世間から批判されても仕方がないでしょう。あれだけ作品だけでなく人間としての佐村河内守を絶賛していたのですから。

関係者は、良くも悪くも間違いなく音楽史に名を遺した曲を闇に葬るのではなく、まずしっかりと謝罪し、楽譜やソフトを正しい作曲家名に訂正し経緯を充分に説明の上で記載して販売再開する努力をし(知る権利を守るため)、過去に遡り今後も含めた印税や販売収益の全額または大部分は、障がいや被爆や震災で苦しまれている方々への寄付に充てるという案が、今取るべき最も正しい道に外野からは見えますが。

まだ分からない人がいるのには呆れるな。信じられないくらい相当莫迦なんだろう。種々ごちゃごちゃと言葉を並べても、基本構造がまるで見えてないのがまるわかり。佐○○○の音楽云々議論するよりも前に、こうして今でも煙の中に居る莫迦な人がそれなりに存在するから詐欺紛いの事は無くならないんだろうな。いや本当呆れる。頭は使わないと勿体無いよ。

「分からない人はもうどこまで行っても分からない、恥ずかしい事です。」とは将にその通りだわ(笑笑

目糞鼻糞を笑うとはこのこと。
まさにここはコップの中の嵐ですな。
それにしても、聴くだけのクラヲタになったら、こんなにも他人を蹴落とすだけが喜びの、
心が狭く醜い人たちになるんだ。
やな趣味だねえ。よくわかったよ。
これを機にクラシック聴くのやめよっと。
他にもっといい趣味はいくらでもあるし・・・。
佐村河内さん、わからせてくれて、本当にありがとう。

>傍観者様

まさに同感(苦笑)。
だけど、クラシック聴く趣味だけはやめないでくださいね(笑)。

そして、たとえ下手でも自分で演奏に参加できればもっともっと楽しいし、さらに視野も拡がりますよ。

Sの指示書をシュトックハウゼンのと準える意見に賛同するヤツもいたし、スタップ細胞問題で査読もしてない山中教授の見識について云々するヤツもいた。いつも似た意見言ってるし、幼稚な読み誤りの仕方も似ている。前からそう見てたし、皆判ってる事なんか、【二心一体】って事かな。
作曲者Nはヒロシマはマーラーをイメージして作ったし、素人喜ばせる為にはヤマトやスターウォーズやウルトラマンも入れる必要あったとか手記に書いてる。これ、褒めてた人、赤面してるな。Nも全身全霊込めて書いた位嘘言うとく所です。
さあレインボーかTAKASHIかどっちが出てくるかな。また違う分身かな。

ここの常連で誤謬を公にしてるのがおられるので確認する。話題のO博士の論文の事を「卒論」等と言ってるが、あれはもちろん博士論文(はくしろんぶん)。博士論文は一般に公開されているし(大学紀要等や公機関にて読める)、論者自身が広く読まれる事を願っている。研究成果を世に広く利用されることを願っているのである。「そもそもこの卒論を引っ張りだしてネットで勝手に公開した事自体本来かなりグレーゾーンだろう。本来大学に大事に保管されているだろうものをどうやって持ち出したんだよ」とは笑止千万。バカッターと揶揄しておいでだが、ご自身こそ注意されるべき。物知らぬとは怖い。物知らぬのにいつも大口たたくのにはある種の敬意を催す。

「 V」だの「まだ居るのか」だの「レインボーTAKASHI」だの、いろんなハンドルネームを使い分けてる方、ご苦労様です。
けれども、そこまで佐村河内守氏と新垣隆氏の汚点に拘るってことは、深層心理では彼等を認めてるってことです。「嫌い嫌いも好きのうち」ってね(笑)。本当に無価値だと思ったら普通全く無視しますよね・・・これ、心理学の常識。もしくは、やはりあなたも佐村河内守氏とコインの裏表で、ごくごく弱い人間。ただ、それを認めたくないだけ。

新垣氏の手記の話で、あなたは鬼の首を取ったように喜んでいますが、所詮あれほど騙されたマスコミが手のひら返しで纏めた週刊誌記事に踊らされているだけですよ(笑)。

>ヒロシマはマーラーをイメージして作ったし、素人喜ばせる為にはスターウォーズやウルトラマンも入れる必要あったとか

それこそ、ショスタコ並みに最高に面白いじゃないですか!! パロディに作曲者の屈折した心境が反映されているのなら、それこそが人間の真実を作品が表しており、この作品の真価なのでは?

>Sの指示書をシュトックハウゼンのと準える
ってことにも、毎回えらく嫌悪感を示されていますが、図形楽譜を連想するのは、音楽の専門家でもごく普通の発想だと思いますが・・・。
http://overkast.jp/2012/01/graphic_notation/

ところで、あなたはマルセル・デュシャンの「泉」という作品をご存じですか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3
ただの便器を「作品だ」、「傑作だ」と言われたら、あなたは褒めますか?

ケージの「4分33秒」は当然ご存じですよね。
他にも、ピアノを燃やそうが、叩き壊そうが、それさえも「音楽」になります。
私は、世界の全ての音楽は等価だと思っています。聴き手によって脳内での化学反応がそれぞれ異なるだけです。

どう感じようと、鑑賞者の自由です。思想・信条の自由と同様です。

交響曲第1番《HIROSHIMA》のスコアを「査読」する前から、すでに吉松先生はこの作品を評価しておられました。山中教授も、おそらく直感的にSTAP細胞の実績について胡散臭さを感じていたのでしょうが、若い研究者の可能性の芽を摘むような態度は示さず温かく応援されておられましたね。吉松先生も山中教授も同じく立派な態度を示されたと、心から尊敬しています。

それに比べ、あなたのコメントには人間としての品性の欠如や心の余裕の無さや貧しさだけを感じ、同情してしまいます。

※ところで、『話題のO博士の論文の事を「卒論」等と言ってる』方とは、どなたのことですか?

多くの人たちは、佐村河内問題について、概ね無関心、相手にしていないのが実情です。こうした問題を音楽専門誌が取り上げて真摯に論じたとしても、反応はどうだったか。そこにあったはずです。実際、取り上げることすらなかったことはどういうことでしょうか。それこそ問題ではないでしょうか。
野口剛夫「佐村河内守は本物か」(新潮45 2013年11月号)をコピーして読んだものの、子ども騙しで幼稚な内容で、こんなものを電子書籍でたたき売りする新潮社の姿勢には呆れました。文芸春秋社も週刊文春に出したものを電子書籍でたたき売りしていたわけですから、結局、新潮社、文芸春秋社が金儲けに利用していただけかもしれません。

私は知らなかったのですが、本事件については、その後、意外な進展もあったようですね。

Wikidataよりコピペします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC1%E7%95%AA_(%E4%BD%90%E6%9D%91%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%AE%88)

・・・・・・このようにスキャンダル発覚後、自粛や高評価の取り下げの流れが続いたが、一方でこの曲は世界的な指揮者であるネーメ・ヤルヴィによって見いだされ、ヤルヴィとエストニア国立交響楽団によって2015年5月14日の演奏会のプログラムに取り上げられる事が発表された。なお、この演奏会での作曲者は "Mamoru Samuragochi / Takashi Niigaki" とクレジットされている。・・・・・・

・・・・・・2014年5月14日、「二重詐欺」(double fraud)が発覚した後、エストニア国立交響楽団が2014年-2015年シーズンの最終公演でネーメ・ヤルヴィの指揮により演奏することを発表した際、ヤルヴィはこの曲について「日本の作曲家によって書かれた悲劇的な作品だが、美とオーケストラに関する優れた知識と重厚さを兼ね備えたマーラーの作品に似た非常にヨーロッパ的なスタイルである」と評した。・・・・・・

HIROSHIMA. Final Concert of the Season
http://www.erso.ee/?concert=hiroshima-final-concert-of-the-season&lang=en

あれから、野口剛夫「佐村河内問題とは何だったのか」、「佐村河内問題とフルトヴェングラー」を読んだものの、これも幼稚というより週刊誌の三文記事でした。また、千住明氏によるもの(中央公論2014年6月号),西澤健一氏によるもの(音楽現代2014年8月号)を読みました。こちらは作曲家の立場からとはいえ、佐村河内守氏がゲーム音楽の作曲家だったこと、新垣氏に対してプロデューサーの立場だったことを指摘し、こうした関係をもっと早く公表すべきだったとしています。
それでも、佐村河内、新垣氏には社会的な責任もあることは述べています。結局、この問題はフルトヴェングラー・マニア、野口剛夫の売名行為に過ぎなかったと見ています。野口剛夫は佐村河内氏がゲーム音楽の作曲家だったことすら知らずに「ペテン師」呼ばわりしただけであって、その言葉に乗った音楽ファンたちも問題ですね。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« なるほどS氏騒動 | トップページ | 雪の茶屋 »