鳥ぷりずむ
続いて〈鳥ぷりずむ〉(1991)のPDF整備。
2本のフルートとピアノのための3章(Tweet, Elegy, Dance)からなる短編だが、冒頭フルート奏者二人は舞台裏左右(あるいは客席の後ろ)からピピピ…と鳥の鳴き声パッセージを吹きながら登場して舞台上のピアノと合流する・・・という(昔懐かしい)ゲンダイオンガク風の仕掛けがあったりするおかげで、演奏法やアドリブ具合の「説明」がちょっと面倒くさい。
JAZZやROCKでのギグで「B♭でテキトーに合わせて」とか邦楽で「テキトーな処に合いの手を入れて」とはよく言うことだが、その「テキトー」を第三者に改めて言葉で説明するとなるとかなり難しい。それに似ている。
ちなみに原譜には「AがBになったらCを演奏し、DとEがFになったらGを演奏する」などと細かい説明が書いてるのだが、それもくどいので、ひとこと「空気を読め」とでも書いておこうか。(鳥だけに…φ(.. )
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上手く言えないのですが、こういうタイプの曲はその革新性にもかかわらず、初演時に特定の演奏家によってイメージが固定化されてしまうと、その精神を継承しようとする次世代の演奏家による名演奏が中々に生まれにくい、ということはないですか?
有名なところでは、武満徹『ノヴェンバー・ステップス』で、琵琶の鶴田錦史、尺八の横山勝也による名演を凌ぐ演奏が、次世代からは一向に出て来そうにありません。
やはりアドリブ主体の曲では、「※※でテキトーに合わせて」「テキトーな処に合いの手を入れて」、「空気を読め」と言われても、時代によってその「テキトー」「空気」に対する感性が、まさに言語のように変化し続けるのでしょうね。これを楽譜でどんなに細かく指示したとしても、本当のニュアンスは伝えきれないと思います。
でも、恐れずにその変化をフォローの風にして冒険し、曲の新しい可能性を拡げていってもらいたいものですね、名作映画や傑作アニメの大胆なリメイクのように・・・。
投稿: 虹色LED | 2014年7月 7日 (月) 22:18