クープランの墓を偲んで
最近、ひどいニュースばかりで鬱な気分の中、ピアノのための短い小品と編曲(どちらも頼まれもの)の作曲のため、ひさしぶりにピアノ(とは言っても電子ピアノだが)に触るようになった。
鍵盤に指を乗せると、小さな舞曲のような音の欠片がタンポポの綿毛のようにぽわぽわと涌いて出て来るのだが、30秒も弾いていると指の筋肉疲労が始まり、書きとめた音符を弾こうとすると指を捻挫しそうになる。(それをピアニストに弾かせようというのだから作曲家というのは困った人種である…)
ちなみに、イギリスの音楽祭から頼まれているこの不思議な委嘱小品は、6人の作曲家による連歌仕立ての組曲…という企画で、ラヴェルがかつて「クープランの墓」でそうしたように、someone who has died in conflict or tragic
circumstances(紛争や悲劇的な状況で亡くなった誰か)を追悼する意味を含めて欲しい…という一文が添えられていた(ラヴェルの曲は6曲それぞれが第一次世界大戦で戦死した友人たちの思い出に捧げられている)。それを聞いた時は「今の日本にそんな人は…」と思ったのだが、悪魔的な予言のようにその「誰か」が現実に現れてしまった。
ただし…(音楽は)哀しみを越えて、人生が続いてゆくような(ものでありたい)…という注釈付きで、今読むと…しみじみ深い。音楽は(今も昔も)死者に手向ける花束のようなものだが、そこにあるのは(今も昔も)「生」への思いなのだ(と思う)。