夢だけど夢じゃなかった…銀河鉄道考
今書いている〈KENJI…宮澤賢治によせる〉という曲の最終章は「銀河鉄道の夜」をベースにしている。しかし、この余りにも有名な作品、私が最初に読んだもの(昭和28年角川書店刊の宮澤賢治集)と現在出版されているものとは、登場人物も構成も終わり方も随分違う。
現在の版(後期形)では、ジョバンニはケンタウル祭の夜、丘の上で銀河鉄道の夢(友人カンパネルラと銀河を旅行する)を見、目を覚ました後、川に寄ってカンパネルラの死を知る。銀河鉄道は純粋にジョバンニが見た「夢」として処理され、ラストは家(現実)に帰るジョバンニで終わる。
一方、私が読んだ古い版(初期形)では、ジョバンニはカンパネルラが川で溺れたことを知った哀しみで丘の上に行き、銀河鉄道に乗る。そしてカンパネルラと銀河を旅するが、突然見失う。そのあと目を覚まし、セロのような声の博士(ブルカニロ博士)からカンパネルラが死んだことと銀河鉄道がある種の心理学的実験だったことを告げられ、ラストは琴の星の描写で余韻を残して終わる。
賢治の死後、昭和30年代くらいまでは、後者の形で出版されていたが、その後色々な研究から、夢から覚めてカンパネルラの水死を知るまでのシーン(原稿用紙の裏に書かれた5枚)が最後に来るのが賢治の考えた最終形だということになったらしい。それに伴い、初期形で登場する博士や実験のくだりは全面削除した方が整合性がある…ということで昭和40年代以降、現在のような形になったという。
賢治自筆の原稿は83枚ほど残っているそうだが、原稿用紙の枡目に書かれているのは銀河鉄道に乗っている間の中盤半分ほど。あとは、序盤(学校から丘まで)も結尾(目が覚めてから最後まで)も用紙の裏に書かれた走り書きに近く、しかもあちこちバッテンで消されていたり二重三重に書き込みが成されている。最終的にどういう構成にするつもりだったのかは、賢治亡き今となっては永遠の謎である。
現在、普通に出版されている「最終形」は、確かに物語の構成自体はかなりスッキリ分かりやすくなったが、ブルカニロ博士の存在を抹消したことで、彼が宇宙や世界についてジョバンニに語るステキな言葉まで全面削除されてしまったことは残念でならない。私が「銀河鉄道の夜」で一番好きなのは、博士がジョバンニに語るこんな言葉だからだ。
「みんながめいめい自分の神様が本当の神様だと言うだろう。
けれども、他の神様を信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。
それから、僕たちの心がいいとか悪いとか議論するだろう。
そして、勝負がつかないだろう。
けれどももし、おまえが本当に勉強して、
実験で本当の考えとウソの考えとを分けてしまえば
その実験の方法さえ決まれば、
もう信仰も化学と同じようになる」
*
もうひとつ、個人的に気になるのは、最初に読んだ古い版のラスト、
「琴の星がずうっと西の方に移って
そしてまた〈夢〉のように足をのばしていました」
という部分である。
(ちなみに、その部分の原稿(右上)は、半紙に書かれた鉛筆での走り書き。「カンパネルラをぼんやり思い出すこと」などというメモがあり、草稿の最終ページだったため、これが物語の結尾だと思われていた)。
昔の版で読んだ私にとっては、これこそが「銀河鉄道の夜」を締めくくる印象深いエンディングだった。銀河鉄道について「なんだ、夢だったのか」というような身も蓋もないことは言わず、最後に星を見上げて「夢のよう」と遠回しに述懐する詩的で見事なラストだと感心したほどである。
しかし、現在ではこの「夢のように」という部分も、「夢」というのは誤植で「蕈(きのこ)」が正しいとされ、そのように修正されている。
←写真一番左がその《夢/蕈》の該当部分。鉛筆による走り書きなので確かに「夢」とも読める微妙な筆跡だ。
一方、真ん中は「五.天気輪の柱」の中で琴座に触れた「蕈のように」の部分。こちらは原稿用紙にインクで清書された文字であり、明らかに「キノコ」と読める。
そして、一番右は別の部分でペンで書かれた「夢」の筆跡である。
この物語では琴座と蕈はペアで登場し、キノコだからこそ「足」つまり傘の下の柄の部分を「のばして」いるのだ…と言われてしまえばその通りなのだが、この美しい物語のラストを締めくくる琴座の描写が 「夢のよう…」という表現だったからこそ「ああ、なんて美しい終わり方なんだろう」と思ったのは私だけではないはずだ。
だから、これがラストですらなく、しかも「キノコ」と書かれている(新しい)《銀河鉄道の夜》を読んだときのショックったらなかった。
確かに「夢」ではないのかも知れない。
でも「夢」であって欲しいと願わずには居られない。
賢治さん、「夢」だと言って呉れ。