ドミソで読み解く音楽
来月京都で行う小さな講演の下調べもあって、このところ古い音楽(雅楽や中世ルネサンス音楽)ばかり聴いている。
いずれも現代のハーモニー感に慣れた耳には「不思議な響き」なのだが、これに耳が慣れてくると、今度は「ドミソ」や「長調短調」で出来た(そしてドミナントや導音などの和声進行の存在する)音楽がものすごく「ヘンな音楽」に聞こえてくるから面白い。
特に、ドとミが「長和音」な(つまりごく普通のドレミファなMajorキイの)音階の違和感が半端でない。モノの本によると、明治の初期、日本に初めてこのドミソが入ってきたとき、日本人はその異様な響きにどうしても馴染めなかったそうだが、それもなんとなく分かる気がしてくる。(ちなみに、平安時代には「呂旋法」として長調風の音階が存在し、雅楽では壱越調・双調・太食調がこれに当たる)
対する西洋でも、そもそも数ある教会旋法(ドーリアやフリギアなど)の中で長調のイオニアと短調のエオリアは最後の最後(16世紀頃?)に登場した異端?の旋法なのだそうで、当時「最近、若い女性たちがイオニア風の歌と踊りを好むようになった。困ったモノだ」と嘆く記述が残っているという。長3度の響きは洋の東西を問わず最初は「すごくヘン」な「堕落した響き」に聞こえたようだ。
それがいつの間にか西洋音楽(そして世界標準の音楽)の王座に君臨する音階になってしまったのだから不思議な話だが、その理由は…と聞かれれば「キリスト教の隠謀?」と言うしか無い。とは言え、もはや「そうでない音楽」を想像するのが難しいほど汎世界的に広まってしまい、どこまでが純粋に「感覚」に関わる先天的な部分でどこからが「理屈」が関わる後天的な領域なのか、判別することも分離することも難しい。(しかも、問題の性質上、「機能和声法」などという代物を耳に仕込んでしまった人…つまり音楽を専門に勉強した人ほど…その判別と分離が難しいことになるから厄介だ)。
おそらく、ここから先はもう人間の「知」で踏み込むのは無理ということなのだろう。ここは是非、AI(人工知能)氏に虚心坦懐に音楽を聞いてもらい、(心だとか気持ちだとかいった魑魅魍魎を剥ぎ取った)「純粋な理知」と「純粋な感性」で音楽について分析する言葉を聞きたい気がする。
とは言え、それを聞いて理解できるかどうかと言われると……心許ないのだが。