美酒佳肴
故)冨田勲さんに連れて行ってもらった新橋の酒亭に久しぶりに寄る。
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故)冨田勲さんに連れて行ってもらった新橋の酒亭に久しぶりに寄る。
J.ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」やハラリ「サピエンス全史」などに書かれた有史以前の人類の文化の考察は、何度読んでもわくわくするのだが、そこにどういう「音楽」があったのか、は残念ながら全く記述がない。
それは当然な話で、リズムや歌は化石や遺物として発掘されたりしないからだ。考古学的に確認できるのは、明らかに「楽器」として使われたと分かる骨の笛や琴などだが、それは(ごく一部の例外を除いて)最も古いモノでも紀元前六千年ほど前。その後、紀元前三千年ほど前(いわゆる古代文明の時代)には世界各地で普通に「音楽」が演奏され研究されていたことが絵や文字の情報で確認されているそうなのだが(ただし、録音などあるはずもないので「音」の情報は無い)、さて、それ以前にどういう音楽が/どういう経緯で/どんな伝播の仕方をしていたのかは、サッパリ分からない。
ただ、一万数千年前頃には人類は牧畜や農耕を始めている…ということは、複数の人間が一緒になって作業をするための労働歌とか収獲の踊りらしきもの(えんやか…でも、どっこい…でもいいのだが)があったのは確実だろうし、それ以前にも、集団で狩りや戦さをするにあたって行軍のリズムや攻撃の合図や戦勝を祈る歌などが全くなかったとは思えない。
さらに昔、数万年前にアフリカから出てユーラシア大陸を横断し南北アメリカ大陸にまで辿り着いた祖先たちが、ただ黙々と何の音も立てずに数千数万キロの荒野を歩いた…と考える方が無理がある。そこには何かお互いの存在と意志を確認しあうようなリズムや歌(ほいほ〜い…でも、ひゅーひゅー…でもいいのだが)があったと考える方が自然だ。
…のだが、この話は永遠に「想像」の域から出られない。なぜなら、最初にも書いたようにリズムや歌が物証として発掘されることは100%ないからだ。というわけで、考えるだけ無駄と言えば無駄なのだが…。タイムマシンがあったら一万年前にテレコを持って行って彼らの歌を聴いてみたい。こればっかりは「夢」で終わるしかないのだけれど。
FM「ブラボー!オーケストラ」2月分2本の収録にNHK403スタジオへ。
年末年始の疲れを癒すため、水のある風景を見に行く。
渋谷からだと直線距離で南東に8㎞ほどの隅田川河口/竹芝桟橋あたりが最短の水辺の風景。(ちなみに、多摩川は逆方向の南西に10㎞ほどで、距離的にはちょっと遠い)
東京湾の入口でもある桟橋あたりから海風に吹かれつつ朝昼夜の東京を眺めていると……なんともその異様な巨大さに(自分の街ながら)むずむずしてしまう。
なるほど、ゴジラになって蹂躙してみたい気になるのも分からないでもない。
二十歳の頃…というと、それはもう思い出したくもないほど暗い青春だった(笑
成人式は…お金も仕事も着てゆく服もないので…行かなかった(行けなかった)。それに、何も知らなかった。ギル・エヴァンスとビル・エヴァンスの区別もつかなかったし、ブラームスの2番と3番の交響曲の区別もつかなかった。文楽と圓生の区別も、ウィスキーとブランデーの区別もつかなかった。
そもそも、若いということがとてつもなく巨大な財産である…ということを知らなかった。失ってからそれに気付いた時はもう全てが手遅れだということも知らなかった。青春と貸した金は二度と返って来ない…という名言を吐いたのは誰だったろう。
ただ、あの頃にもう一度戻りたいか?と言われると……それは真っ平御免こうむりたいけれど(笑
渋谷に行く散歩コースに、池と水車小屋と松が並ぶ不思議な空間(鍋島松濤公園)がある。
むかしはきれいな湧き水があってお茶を点てていた場所だったらしく、今でもその名残の水車が(時々だが)回っている。
ここの池のゆらゆら揺れる水面を見ていると、タルコフスキーの映画「ソラリス」の中で延々流れる「水」の景色を思い出す。この場所自体が、コンクリートだらけの広大な海にポツンと浮かぶ小さな小さな「島」のような存在のせいもあるだろうか。
狭ければ狭いほど(とは言っても、この公園自体は1,500坪ほどあるらしいのだが)そこに勝手に「宇宙」を感じるのは、日本人の悪いクセ…なのか美学なのか。
NHKの音楽番組解説打合せのため、年末年始に古今の「レクイエム」を十数曲ほど聴くことになった。
レクイエムは、歌詞冒頭が「Requiem(安息を Aeternam(永遠の」で始まるため「レクイエム」と呼ばれるが、正しくは「死者のためのミサ曲」。カトリックで信仰の深さを確認する儀式「ミサ」のひとつなので、同じキリスト教でもプロテスタントの作曲家(バッハやメンデルスゾーン、ブラームスなど)は宗教曲は書いてもレクイエムは書いていない。(ブラームスは典礼文を使わずルター派の聖書からドイツ語の歌詞で「ドイツレクイエム」を書いている)
中でも有名なのは「怒りの日(Dies irae)」の部分で、世界の終末の審判の日、ラッパが鳴って死者が全て集められ、天国に行く者と地獄に落ちる者とが選別される…という怖いヴィジョンが歌われる。グレゴリオ聖歌の中の有名な旋律は、ベルリオーズの幻想交響曲など多くの作曲家の作品で印象的に登場するし、モーツァルトやヴェルディのレクイエムにおける「怒りの日」は衝撃的かつ圧倒的な音楽だ。
ところがこの「怒りの日」、ラテン語の典礼文の中に昔からある正式なものではなく、13世紀に創作されたもの。しかも、その目的はというと(見も蓋もなく言ってしまえば)カトリックの教会が「地獄は怖いぞ」「信心が薄いと地獄に落ちるぞ」と不安を駆り立て、地獄に落ちたくなければ「教会に献金をしなさい」という流れに持って行くため(実際、16世紀には教会がそのための「免罪符(贖宥状)というものを大々的に売り出している)だったのらしい。
当然「それはあんまりな話だ」「教会の堕落だ」と抵抗(プロテスト)する人が出て来て、結果「プロテスタント」と呼ばれる反カトリック的な宗派が出来た(…と以前、池上彰氏の番組でも説明していた)。そう聞くと、レクイエムの名品を聴いて感動しつつも、なんだか複雑な気持ちになる。
そのせいか、フォーレのように、カトリックでありながら「怒りの日」を外したレクイエムを書いている作曲家もいる。プロテスタントとまでは行かないにしろ「怒りの日」のヴィジョンには本能的な違和感を感じたからかも知れない。(私も1990年に書いた交響曲第2番の中にレクイエムの楽章を器楽的に組み込んでいるが、Introitus/Kyrie/Offertorium/Sanctus/Agnus Dei/Libera Me…の6部分で、典礼文は使わずDies Iraeも入っていない)。
ちなみに、現代(1960年代に行われたバチカン会議以降)では、「怒りの日」は不安や恐怖を強調しすぎていてふさわしくない、として正式な典礼の項目からは廃止されているのだそうだ。(なので、怒りの日が入っていないため「異教徒的」と批判されたフォーレの作も、現代では晴れて正しいレクイエムの形と承認されたことになる)
・・・蛇足ながら、むかしオーケストラのコンサートでヴェルディの「レクイエム」が演奏されたとき、インドから来た音楽家の方が「誰か亡くなったのですか?」「誰も死んでいないのになぜレクイエムなど演奏するのですか?」と心底驚いていたのが印象的だった。
彼によれば、音楽は世界/宇宙の調和を奏でるものであって、朝には朝の、春には春の「調べ」を奏でるのが基本。誰も死んでいないのにコンサートホールでレクイエムを演奏するような「世界の調和を見出すようなこと」をするから戦争が起こるのです!と説教された憶えがある。
なるほど、音楽にも戦争責任があったのである。