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FM「ブラボー!オーケストラ」7月分2本の収録にNHK 405スタジオへ。
7月7日(日)放送分は、チャイコフスキー「イタリア奇想曲」(2019年2月3日第79回休日の午後のコンサートから)、同「ヴァイオリン協奏曲」(vn:ユーチン・ツェン 2019年3月13日第918回サントリー定期シリーズから)プレトニョフ指揮東京フィル。
7月14日(日)放送分は、ウォルトンの戴冠式行進曲「王冠」、チャイコフスキー「交響曲第4番ヘ短調」。バッティストーニ指揮東京フィル(2019年4月18日第920回サントリー定期より)
ちょっと珍しいウォルトンの戴冠式行進曲「王冠」は1937年に前の国王ジョージ6世(現在のエリザベス女王のお父上)の戴冠式の時に作曲された曲。日本でもこの5月に新しい天皇が即位して「令和」の時代となり、10月に(戴冠式に当たる)即位礼正殿の儀が行われるので、それにちなんだ一曲。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲と交響曲第4番は…作曲を志した高校生の頃、それこそ舐めるようにスコアを読んだ懐かしい曲。彼の音楽は当初なぜか初演で失敗したり悪口を言われたりすることが多かったようだが、それはどこか「これでもか」というような過剰な(シャウトしたりコブシを付けたりする)表現が人の心を刺激したからなのだろう。BGMとして聞き流したり心地よく眠ってしまうことが出来ない。それを「煩わしい」と思うか「凄い」と思うか…、その点では当時の人々にとって彼の音楽は「ロック」だったわけだ。(とは言え、そのロックもいまやすっかり古典=クラシックになってしまったけれど…)
映画「海獣の子供」を見る。
五十嵐大介氏原作の全5巻は(もともと初期の「はなしっぱなし」や「そらトびタマシイ」の頃からファンだったので)読んでいたが、その精緻な絵柄をそのままフルカラーで再現した上それが「動く」のだからたまらない。魚の群れの動き、雨や嵐の空気感、圧倒的な質量を持つ巨鯨の存在感、その波しぶき、波打ち際の水面や光の描写…全てのシーンが一幅の絵画のような完成度で、コンピュータによる3DCGの技術を知らなかったら「一体、どうやって描いたのか?」と畏怖感を覚えたに違いない。(そう言えば、80年近く前の「ピノキオ」(1940!)でも巨大クジラが緻密な波しぶきを上げていたことを思い出した。あれはもちろん手作業の職人技だったけれど…)
物語は、主人公の少女(琉花)が、ジュゴンに育てられたという二人の少年(海と空。これが海獣の子供)と出会い、海の中で繰り広げられる不思議な出来事に遭遇するひと夏の話。隕石を精子とし海を子宮とする生命誕生の儀式のようなものが後半に展開し、「2001年宇宙の旅」を思わせる謎めいた色彩と光の洪水が押し寄せる。それについて脇役たちが所々で哲学的・科学的な解説をしてくれるのだが、いまいち分かりにくい…というより観念的に過ぎるので、むしろ(氏の「はなしっぱなし」の中の物語のように)そのまま神話や伝説あるいは奇譚の類として「何だか分からないがそういうことです。不思議ですね」で済ませてしまっていいと思う。「2001年」も最初はナレーションで解説を付けていたのを最終的に取ってしまったのだそうだが、これも映像(と音楽)だけで全てを語らせて充分世界観は伝わる。そういう作品のような気がする。
最近、日本の名前の英語表記を「姓・名」の順にしようという動きが始まった(らしい)。
むかしは、「名・姓」と逆に綴る方が国際的で格好いい…と単純に思っていたが、現実に海外で仕事をするようになると(HondaとかToyotaなどという有名な名前以外は)「どっちが姓でどっちが名前?」と聞かれることが少なくない。なにしろ「名」は「First name」で「姓」は「Last name」なのだ。後の方がファーストで前がラスト…と説明すればするほどややこしい。なので、署名などでは姓の方を大文字で書くようにしていた。
ただ、発音する場合は区別の付けようもなく、海外での表記はCDでも楽譜でも記事でも全て「名・姓」の順。それに逆らって敢えて「姓・名」にこだわるとますます「どっちがFirst nameですか?」の問いが多くなると言うジレンマ。そのせいか、自分の自筆楽譜の表記も「名・姓」だったり、「姓・名」だったりまちまちで一貫性がない(笑
音楽の世界では、バルトーク・ベラやコダーイ・ゾルタンなどハンガリーの作曲家が日本と同じ「姓・名」の順。中国も日本と同じ(毛沢東はMao Zedong)だが、音楽家などは海外で活躍する人が多いので、どちらが姓なのか(ヨーヨー・マやラン・ランなど)迷うことも少なくない。なので、統一してくれると有り難いは有り難いが、過去の文献や記事や出版物まで全て…というのは無理だろうから、つまるところ「どっちがFirst nameですか?問題」(略して「ドファ問題」)が無くなることは当分無さそうだ。
ゴジラ映画の最新作「ゴジラ〜キング・オブ・モンスターズ」を見る。
ゴジラ・モスラ・ラドン・キングギドラという懐かしの怪獣たちが勢揃いする…と聞いて抗える第一次怪獣世代はいない(笑)。前作(ゴジラ:2014)以来のハリウッド版ゴジラの造形はいまいち好きになれないが、知らない怪獣(ムートー)が主役の前作よりはるかにゴジラ愛を感じる。とにかく豪勢なCGで巨大さを強調された4大怪獣が大画面でどったんばったん暴れ回るだけで感涙モノだし、ゴジラのテーマ・モスラの歌もあちこちで聞こえるうえ、オキシゲンデストロイアや芹沢博士の自己犠牲まで完備されているのだからたまらない。
ただし、問題は人間ドラマの部分で、登場人物たちの価値観はマッドサイエンティスト側もテロリスト側も…何かというと子供のこと家族のことで情緒不安定になる科学者夫婦も…常に苦虫噛みつぶした顔で怪獣との共生にこだわる芹沢博士も…純真自由な子供視点のはずの少女の側も…まったく共感できなくて、見ながら頭を抱えてしまう部分が何度か。ゴジラとタメ口の芹沢博士はともかく、アイコンタクトする主人公とか、それに応えるゴジラとか???。いや、それでも巨大な怪獣たちの体張っての大バトルで全て許せてしまうのだけれど。おかげで「巨大なわけの分からないモノが歩いてくる恐怖」に絞った第一作「ゴジラ」と「シン・ゴジラ」の見事さを再確認する。
ちなみに、最後に怪獣を倒したあと歓声を上げハイタッチをするシーンがなかったのは救いだった。「ゴジラ」も「シン・ゴジラ」も倒した後は虚脱感とも追悼とも付かない敬虔な雰囲気だったことを思い出す。アメリカ風と日本風の違いと言えば言えるが、いくらなんでも原爆を落としたB29の上で歓声は上げないだろう。勝つか負けるかの戦いを繰り広げた相手に対する敬意の問題か。(ちなみに、ゴジラに対する敬意はラストシーンで「え?」という感じで現れる。なるほど、このタイトルはそういう意味だったか…と納得するも、映画館の横の席から「バーフバリかよ!」というツッコミも…)