« 2019年11月 | トップページ | 2020年1月 »
人類の文明が始まった1万年ほど前に数百万人くらいだった全世界の人口は、現在軽く70億を超し、誰が言ったか「タラコが全部孵ってしまって海中タラだらけになっている状態」になっている(笑。
そもそもDNAに組み込まれた人間の寿命は38歳くらいなのだそうで、病気も戦争もなく完全無欠の生涯を送ったとして50歳くらい…というのが神サマの考えた人間の耐用年数らしい。ということは三十代半ばで亡くなったモーツァルトやショパンくらいが本来の寿命であって、人生五十年のマーラーや織田信長は大往生の部類。現代のように平均寿命が70歳80歳超えの状態は、ひとえに医学の進歩と科学文明が生み出した「神をも怖れぬ」状態ということになるようだ。
かくして我らが人類は地表をびっしり埋め尽くす繁栄(異常繁殖)を謳歌しているわけだが、この状態をもし宇宙人が空の上から見たら、恐れをなしてとても降りて来られないような気もする。海がびっしりタラで埋め尽くされ海面が見えない状態なのに、タラが「タラコの一粒は地球より重い」と主張して大気を変質させる勢いで倍々と増殖しているのを見たら、(私が宇宙人でも)お近づきになるのは躊躇する(というより、殺虫剤でも撒きたくなるような気がしないでもない…)蛇足ながら、タラコひとつには10万粒以上の卵がはいっているのだそうで、明太子をぱくぱく食べると数十万匹の大虐殺になる計算だ(笑
サテ、16歳のグレタさんは未来のために「二酸化炭素の排出量を10年で半分以下に!」と改めて怒りを込めて訴え大人世界を揺るがしたが、全く何の忖度も人道的束縛もないAIのグレタさんが登場したら「人間の数を100年で100分の1以下に!」ともっと怖ろしく真っ当な提案をしそうな気がする。現状では「とんでもないことをいう機械だ!」と一瞬にしてスイッチを切られてお終いだろうが、そこにある真実をどう読み取りつつ我らタラは…もとい人類は未来を生き延びてゆけばいいのだろうか。
iPhone本体にカード決済のSuicaカードを登録しておいて、ペアリングしたWatchで支払う仕組みだが、交通機関(電車やバスからタクシーまで)はほぼすべて時計を嵌めた腕をかざすだけで乗れるので便利きわまりない。
…のだが、先日初めてトラブルに見舞われた。駅の改札を出て気が付くとSuicaのペンギンの上に「赤いびっくりマーク」が付いていて「入金(チャージ)の際に処理が正常に終了していませんでしたので復旧処理を行います(1050」という表示。
ところが表示通りに処理を試みても「出来ませんでした。安定した通信環境でもう一度処理して下さい(2040)」と繰り返され堂々巡り。再起動しても状況の改善はなく、30分近く無駄に時間を潰してしまった。(改札を出てからだったのでまだよかったが、出る前だったらその間、駅から出られなくなる可能性もあったわけだ)。結局、その日はSuicaを使わずに家に戻ることになった。
翌日、ネットで色々調べて試行錯誤した挙げ句、駅構内でこのトラブルになるというのは、改札で読み取りミスがあった可能性が高いようで、端末をヘルプモードにして駅員さんに渡して処理して貰うのが正解らしい。(実際、回復したあと利用履歴を見ると、その一回分の運賃¥126が加算されていなかった)。結局、Watchの方をヘルプモードにし、iPhone共々アプリを停止し再起動を繰り返すうち何とか元に戻った。
どんな便利なモノも「100%信頼できるわけではない」という当たり前のことを改めて思い知らされたわけだが、逆に言えば1年半もの間無事に使えたことに感謝すべきなのかも知れない。(しかし、私は個人的にこういうモノが好きな理系老人なので楽しくてしょうがないのだが、文系老人にとってはサッパリわけが分からない困った世界になりつつあるのだろうなぁ…)
オーブ(精霊)が写りました…という写真を貰った。背景に青白い小さな光の球が写っていて、Orb 光球/玉響(たまゆら)などと言うらしい。可愛い守護霊のようにも見えるので、スピリチュアル系が好きな人は「精霊」と呼び、幸運のシンボルにもなっているそうだ。
そう言えば、古い時代のカメラ↑は、明るい光源にレンズを向けると必ずフレア(光源が滲む現象)やゴースト(レンズやシャッターの形状の像が写る現象)が映り込んだものだが、最近のデジタルカメラや携帯のカメラではまた異なった形状のモノが現れるようだ。
←写真左は初期のデジタルカメラ(2003年)に映り込んだオーブ。父の葬儀のあと遺影をおいたテーブルを撮影したところ、雪の結晶のようなオーブが幾つも写ったもので、霊魂だと信じたい気もしないでもない。しかし、これはカメラのフラッシュで室内の塵(いわゆるハウスダスト)が反射したもの。
写真右は、iPhone4(2011年)で写した曼荼羅模様のフレア。これも父の命日にお寺に行き墓を撮影したら写ったもので、霊的なものと信じれば信じられる気もする。しかし、これはiPhoneカメラの構造によるもので、逆光で撮影するとこの模様が写るバグ。しばらくすると修正されたようで写らなくなった。
復元された町並みをぶらぶら歩くうち、「米屋」の奥の神棚?のような位置になぜかニワトリが二羽、貴重品のように並んで居るのを見つける。不思議に思って見上げていると、解説員の男性が「これは米に付いた虫を食べさせるために飼っていたんですよ」と説明してくれた。
米屋だとむしろネズミよけに猫を飼っていそうな気もするが、江戸時代では猫は高級愛玩動物で金持ちのもの。庶民がネズミ除けに飼えるようなものではなく、代わりに「猫の絵」を買ったほどなのだそうだ。(実際、専門に「猫絵」を描き、売り歩く業者も居たのだとか)
そのあと午後から小劇場で「善の快」の公演を見る。知り合いが女優さんをやっている劇団で、今回の出し物は忠臣蔵の裏話をネタにした「ツッコミ忠臣蔵〜堀部安兵衛の妻」。
日本人の知る忠臣蔵は劇として感動的に装飾されすぎているが(確か故杉浦日向子さんも言っていたように)見方を変えれば「47人の大の男が完全武装して、寝ているじいさま一人を惨殺したテロ事件」(実際、討ち入った赤穂方は47名全員ほぼ無傷、吉良方は死者17名負傷28名)。当然ながら「なぜ?」という突っ込みどころが満載の物語で、今回の劇でもそのあたりの「ツッコミ」に新説を交えて面白おかしくかき混ぜてくれていて楽しめた。
おかげで杉浦日向子さんを思い出して著書(「百物語」「ゑひもせす」「百日紅」…)を再読するも、彼女の著作は一部のエッセイ本以外まだまったく電子書籍になっていないことに気付く。電子化されたら全著作買い直すのに…。
新シューベルト・シリーズ第6回の今回は、シューベルト晩年のミニアチュア「アレグレット」に始まり、シューマン「子供の情景」、グリーグ「ペールギュント」を経て、最後はブラームスの大作ピアノソナタ(第3番)。
彼女の演奏は(考えてみると)結構異形の表現(聞いたことのないアプローチ、聞いたことのない表現)に満ちている。しかし、それが微塵も不自然さを感じさせず「これほどの自然はない」と思えるほど「自然」に聞こえるから不思議だ。
特に今回のコンサートでは、ピアノの響き(ブラームスの強音からシューベルトの弱音まで)がぴったりホールと聴衆を包み込む絶妙な響きのバランスで鳴っていたこともあり、息を呑むような美しさ。響きは奔流となって押し寄せるのに、まるで時が止まっているかのような静謐さがあり、深淵を覗き込むような(そして深淵から覗き込まれているような)情感が漂う。
終演後、ブラームスの余韻を肴に銀座で一杯。さすがに熱燗…は合わないので、近くのバーでアイリッシュ・ウィスキー(Jameson Black Barrel)を。
新しいMac Proが登場した(…正確には、登場しました!というメールがAppleから届いた)。
ベーシックなタイプで3.5GHZ 8コア/メモリ32GB、オプションなしで軽く60万はするモンスターマシンだが…、そう言えば、私が30年前(1987年)に最初に買った初代 Apple Macintosh plus(8MHz/メモリ1MB)も…確か(秋葉原で)60万以上した。おまけにプリンター(ImegeWriter)とかHDドライヴ、モデム、そしてソフト(ワープロ、図面、計算、通信など)を加えて最低限仕事が出来るようなセットを組むと…120万くらいした記憶がある。
大してお金もないのに大枚はたいて無理して買ったのは、「車を買うくらいの値段(当時は60万前後あれば国産の大衆車が買えた)でコンピュータが買えるなんて!」と狂喜したからで、今で言うなら都心で2LDKの新築マンションが120万!というのと同じ感覚だろうか。当時はとにかく夢のように「安い!」と思ったのだ(笑。
まあ、既にリタイアした身としては、もはやこんなオーバースペックな機械は要らないが(…と言いながら頭のどこかに「欲しい」と駄々をこねている理系小僧が居るのだけれど)、交響曲を書くAIを仕込んでぐりぐり稼働させ、ハイドン並みの数を無駄に量産してみたら面白かろうとも思う。
昔(…以前にも書いた気がするが)とある女性に「なんで男ってそんなに新しいパソコンが欲しいの?一台あれば充分じゃない!」と言われ、「女性が新しいハンドバッグや服や靴が欲しいのと同じじゃないかな。一つあれば充分なのに!」と言ったら口をきいてくれなくなったことがある(笑
今回も、本体にディスプレイ(ProDisplay XDR:32インチRetina6K。60万)を付けると120万。なんというか…デジャヴ?
とある物語の中で、青年が「音楽(美術)で生きていきます」と親に報告した途端に降り注ぐ言葉の嵐・・・
「そんな不安定な仕事で生きていけると思っているの?」「妻子は養えるの?」「そもそも才能はあるの?」「才能があるかどうかも分からないのに一生を賭けるなんて無謀とは思わないの?」「もしあったとしてもそれで食べていけるのはほんの一握りだよ?」「運良く一発当てるのは出来たとしてもそれで何十年生きてゆくのは至難の業だよ」「そもそも好きなことだけやって生きていけるほど世の中は甘くないよ!」
ああ、何百回聞いたか分からない台詞ばかりで胸が痛む(笑。しかし、若者よ、こういう正しい助言(?)を延々繰り返し聞いても挫けない怪しい自信(!)こそが「才能」なのだと肝に銘じるべし。(ただし、それは「バカと紙一重」でもあるのだけれど)。
そしてバカの先輩が今しみじみ思う座右の銘はこれ➡
生まれた時から渋谷人だが、最近は人が多過ぎて中心部(渋谷駅やスクランブル交差点のあるあたり)には近寄らなくなった。ところが、ここ一月ほどで新しい施設が次々開業となり、気が付くとビルだらけの街に生まれ変わっていてちょっと驚いた。
そもそもの始まりは2012年に建った渋谷ヒカリエ(34階。旧東急文化会館)。その後延々と駅や線路の移設大工事が続き、昨2018年夏には渋谷ストリーム(35階。旧南街区)が完成。そして今年11月始めに駅の上にスクランブルスクエアなる47階建てのビルがドンとそそり立ち、続いて公園通りに20階建ての渋谷パルコ、今日は昔懐かし東急プラザの跡地に地上18階/地下3階の渋谷フクラスがそれぞれ開業。「あれは何というビルですか?」と観光客に聞かれても、60年以上渋谷に住んでいる地元民が答えられない大変化である(笑
←ちなみにこちらの地図は30年ほど前(1987年)、まさに渋谷我が町として闊歩していた頃のもの。高校の帰りには必ず東急プラザ上のコタニでレコードをあさり、道玄坂のヤマハで楽譜をあさり、大盛堂で本をあさっていた…のだが、気が付くともう全て存在しなくなってしまった。
おかげで、今の渋谷の街を歩くと、道や地形は同じなのに、そこにあるはずの建物がまったく違う…というまるでパラレルワールドに迷い込んだような…そんな気分になる。
もともと「渋谷」という位なので、渋谷川と宇田川の「谷底」にあたる(ビルの3-4階ほどの落差のある)どん底とでもいうべき場所。昔このあたりに居た渋谷何とか左衛門という盗賊の名前から取った…と子供の頃は聞かされていたが、いやいや盗賊を捕らえた武士の名前だ…という人も居て、諸説あるらしい。此処は是非、街が生まれ変わったのを機に、ハチ公像の横に〈盗賊渋谷なにがしの像〉も建てて欲しい(笑
FM「ブラボー!オーケストラ」1月分2本の収録にNHK608スタジオへ。
今回は、インバル指揮東京都交響楽団の第384回プロムナードコンサート「五大陸めぐり〜ロシア・グレイテスト・ヒッツ」(2019年11月23日@サントリーホール)を2回に分けて放送する分の収録。
1月12日(日)は、ショスタコーヴィチ「祝典序曲」、ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲」(p:サスキア・ジョルジーニ)、+CDでショスタコーヴィチ交響曲第5番から第4楽章。
1月19日(日)は、チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」「1812年」、+同じくCDでショスタコーヴィチ交響曲第15番から第4楽章。いずれも演奏はインバル指揮東京都交響楽団。
最後の〆は、ショスタコーヴィチ最後の第15番の最後の楽章。激動の二十世紀を生き残り、15の交響曲を残した彼の最後のフィナーレは、ベートーヴェンのような壮大な合唱付きでも、チャイコフスキーやマーラーのような感動的なアダージョでもなく、さりげなくオモチャ箱の蓋をパタンと閉じるような…不思議な終わり方。ここまでのソヴィエト連邦の歴史と彼の人生を思うと、手を合わせたくなるような敬虔な気分になる。
収録後、大晦日放送のFM特番用のコメントを録音。FM50周年記念と言うことで、FM番組のパーソナリティが自分の番組の紹介をする(いわゆる番宣的な)ひとこと。「お薦めの一曲」付き。
…と、これにて本年度の収録はすべて終わり、今年初の「良いお年を!」を聞くことに・・・