西村朗氏のこと
1984年(31歳)頃、同い年・似た体型・オーケストラ好き・名前が三文字…という落語の三題噺のようなつながりで出会った生涯の友人である。
大阪出身の彼は「浪速商人」型、東京出身の私は「江戸職人」型、と明らかに性格もタイプも違うのだが、「世紀末音楽研究所」というナゾの組織を作って酒を飲みに行ったり旅行に行ったり音楽論を戦わせたり。作曲家仲間と言うより「悪友」という感じだった。
もともと彼は、私と出会う10年も前から各種作曲コンクールを総なめにして「天才」の名をほしいままにしていたが、その後も音楽賞や芸術賞や音楽監督や審査員や教授などなど役職や冠の類いを馬に食べさせるほど貰いまくり、さらに多種多彩な曲を(泳ぐのを止めると沈んでしまうサメか何かのように)書きまくり現代音楽界の重鎮にのし上がっていった。
一方、私はというとコンクールに落ちまくりの出遅れ組からようやく這い上がってデビューを果たしながら肝心の現代音楽に反旗を翻して戦線を離脱。そのあとは賞なし役職なし経歴なしのヒラの作曲家のままで、彼とは身分の差を極限まで広げてしまったのだが、出会うと一瞬にして若い頃の「悪友」の間柄に戻ってしまうのが面白い。
50歳になった時の対談で「お互い50になったね(よく生き残ったね~)」と健闘を称え合った後、彼が「これで人生ちょうど半分来たってことかな」と言うので「おいおい、百歳まで生きるつもりか?」と驚いたのが昨日のことのようである。
とは言え、ここまで好き勝手なことをやって、お互いこの歳まで生き残ったのだから、キミの死を早いとも惜しいとも悲しいとも思わない。そのうち私もそっちに行くからその時また一緒に酒でも飲もう。