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2019年8月25日 (日)

ことばの話・・・3

Wagnerkkオペラを書いたのにお金がなくて上演できないので資金援助が欲しい…と人に頼むとき、普通なら「すみませんが、お金を援助して貰えないでしょうか」と頭を下げて下手(したて)に出る。ところが、かのワーグナー翁は「私の芸術を援助する光栄をあなたに差し上げよう」と常に上から目線だったのだそうだ。それだけでもう「天才」である(笑)。

日本ではどちらかと言うとこういう「上から目線」は嫌われ、下手に出て相手を立てる謙譲の美徳が基本だが、それが通用しない(常に上座を固持する)相手もいる。随分昔の話だが、今は無きソヴィエト連邦という国がそのテの達人だった。非難されるようなことをして他国から抗議を受けたとき、普通は謝るか少なくても萎縮するものだが、微塵も悪びれず「抗議を拒否する」と言い放つ。凄い。その発想はなかった(抗議というのは拒否できるんだ!)と逆に感心した記憶がある。

そう言えば、子供の頃、悪ガキが悪さしてみんなに糾弾されたとき「ふん、お前の母ちゃんデベソ」と言い放って相手の逆ギレを誘い、論点を見事に引っ繰り返す技法につくづく感心したものだ。さらに、先生につかまって「謝りなさい」と言われると、ふんぞり返って「悪かったな!」と言い放つ。挙げ句「悪いことをしてなにが悪い!」と言うに至っては、普通のコが持っている一般常識を軽々と破壊し(唖然とすると言うかポカンとするしかないという反応を引き出す)「ことば」の芸術?に思わず拍手したくなるほどだった。

こういうのも修辞学というのかどうかは分からないが、弁論・叙述のテクニックであることは間違いない。最近日本の周辺では、この種の技法を研究し尽くして外交に駆使し、まるで国技の域に達しているような国が目立つが、日本は外に向かってのこの種のレトリック(見も蓋もなく言ってしまえば「悪口」)に関しては残念ながら後進国。もう少しこういう「黒い修辞学?」を(使う使わないは別として)国家規模で軍事的?に研究すべきなのかも知れない。それこそワーグナーでも聴きながら(笑)

2019年8月24日 (土)

ことばの話・・・2

Photo_20190823100401しばらく前、若者たちで混雑する場所に行ったとき、すれ違う彼らの80%?くらいが「やばい!」「やばいよ」「やばいやばい」「ヤバイっす」「やばいね」「やばし」「やばッ」というワンワードなのに驚いた。思わず「ここは邪馬台国か!」とツッコミを入れてしまったほどだ(笑)。

翻訳すると…「うわあたくさん人が居てすごい混雑だ」「待ち合わせの時間に遅れそう」「友達を見失った」「変なメールが来た」「ケータイが通じない」「XXを持ってくるのを忘れた」「道を間違えたみたい」「おかしなヒトが居る」「今買った△△、結構おいしい!」「このストラップ、かわいい!」「変な人に声をかけられた」「口が臭い!」「天気予報ではこれから雨になりそうだって」「トイレに行きたくなった」「風が強い」「暑い!」「うるさくて聞こえない」「歩きすぎて足が痛くなった」「もうX時だから帰らなくちゃ」「足を踏まれた!」「財布忘れた」「この曲すごくいい!」・・・ということらしいが、すべての表現を「やばい」の一言で表すというのはある意味凄いと言えなくもない。

私の若い頃も使っていた記憶があるから別に新しい言葉ではないし、ここ20~30年普通に使われているので特に流行語なわけではない。もともとは江戸時代からある言葉なのだそうで、悪党や泥棒が「厄場(やば)」=牢屋・監獄に入れられそうな危ない状況のことを「やばい」と言ったのが始まりなんだとか。

それが、最近では否定的な意味でなく「(良すぎて)やばい」「(素晴らしすぎて)やばい」と逆転して、肯定的な意味にも使われるようになった。おかげで、オールマイティな(何でも一言で言い表せる)国民的言葉に昇格したわけなのだが、食べ物を口にして「やばい!」と言った時、それが「まずい(腐ってる)!」という意味なのか「うまい(おいしい)!」という意味なのか世代によって逆転してしまうのは、やばい。

似たような表現に(これはちょっと古いが)「キモイ!」があり、「気持ちいい」も「気持ち悪い」も略せば「きもい」なのに、なぜか後者の意味で使われている。そう言えば「いいです」というのも、「それでいいです」は肯定だが「それはいいです」だと否定になる。そのうち「はい」でも「いいえ」でもない「はいえ」などということばが登場する可能性もゼロでは無さそうだ(笑)。

2019年8月23日 (金)

ことばの話・・・1

Laugh今更な話だが、(笑)というのは便利な記号だと思う。

例えば「現代音楽撲滅協会」と書くと、なんだか世界数カ所に支部があって腕章付けた自警団がラジオやCDをチェックしているような怖い組織のイメージだが、「現代音楽撲滅協会(笑)」と書くだけで本質と実体が伝わる(笑)。

起源は、戦前の議会や裁判などの速記録なのだそうで、たしかに発言が「戦争だ!」なのと「戦争だ(笑)!」なのとでは全く意味が変わる。対談や座談会でも(一同笑う)とか(爆笑)などと書かれていれば、どんな大激論でも雰囲気が柔らかくなる。ネットではさらに「ワロタ」や「w」(笑うの頭文字)、「草」(wの字の形から)などバリエーションが豊富だ。

個人的には、クラシック音楽(…特に現代音楽)を聴き始めた頃、気難しい話ばかりで笑って話せる人が居ない…という事が気になって、以後、文章や解説(そして音楽でも)「笑」にはこだわるようにして来た。「美しい」音楽は、泣けると同時に微笑むアイテムでもあるからだ。ただし、普通の文章に(笑)を付けるのはまだ一般的ではないらしく、以前本を出したとき、初稿でベテラン編集者氏に(笑)の表記を全部削除されたことがある(最終的には全て復活させたが)。今はどうなのだろう。

もちろん人によっては「決して笑わない」ということを信条としている人もいる。人前で「泣く」のがNGなように、「笑う」のもNGだという男の美学もあるだろうか。(現実のベートーヴェンは大いに笑っただろうが、肖像画はしかめ面ばかりだし)。さらに「笑うのは不謹慎」という事柄も世の中には多く、「笑えない」事例も少なくない。それは事実だ。

それでも、真面目な顔では正面突破できない壁も、笑って斜めから攻めれば崩せることもある。「もうだめだ!」…と言ったら全て終わってしまうが、「もうだめだ(笑)」…ならまだ先がありそうな気がする(のだがどうだろうか)

2019年8月20日 (火)

生と性と音楽と

Darwin 最近、虫たちの「性」について書かれた「ダーウィンの覗き穴」(メノ・スヒルトハウゼン著)という書を読んで愕然としたのだが、動物たち…どころかイカタコから虫に至るまでオスメスのある自然界のあらゆる生物…の性器は、それぞれまちまちな形と大きさと構造と機能を持っているのだそうだ。そんな事はこの歳になるまで知らなかった、というより考えたこともなかった(笑)

そのため性器の形状で生物の分類が出来るほどなのだそうなのだが、モノがモノだけに研究が難しいうえ、生モノ状態での保存がほぼ不可能(確かに恐竜の性器の化石などが発掘できるとは思えない)。さらにあんまり表だって研究したり大声で研究成果を発表できない分野ということもあるらしい。(本のタイトルにもなっているダーウィンの時代は、カトリック的な倫理観や英国紳士たるモラルから性の研究など簡単にねじ曲げられて来たそうだし、現代でも男女間や人種間の「違い」の研究は「差別」と見なされて消し飛ばされてしまう。真実を真実として知るのは、いつの時代でもどの国でもそう簡単ではないようだ)

そんなこんなで何億年も前から付いている器官のくせに、その研究は初歩の初歩の域を出ず、そもそも何で「性」などというものがあるのか(もちろん遺伝上免疫上のメリットはあるのだが、デメリットもある)、なぜ地球上の生き物が「単身コピー」ではなく「雌雄による生殖」などという面倒くさいコトを延々繰り返しているのか…諸説あって結論が出ていないらしい。「マジで?」という言葉はこういう時に使うのだろう。

Aim それにしても、世代を受け継いでゆくタイプの生命体に「性」が必要不可欠だとすると、人工知能はどうなのだろう?アトムは「ロボットの自分には心(感情)がない」と悩んでいたが、アレがないことに悩む回はあったのだろうか?「ロボットにも性器を付けてみたら」などと主張したら完全に変態扱いになるだろうから、誰も言い出さないだけなのだろうか?(現状では、威圧的で強そうな警備ロボットなら「男」っぽく、従順で優しいメイドロボットなら「女」っぽく、という性差は付けるらしいが、それをすると今度は「性差別」あるいは「単なる性のステレオタイプ化」という声があがるそうだから難しい)

そもそも音楽にも「性」に関わる巨大な暗部がある。時間・音・快感…というパラメータで出来ている以上、人間の「生」の根源に関わる生理(つまり「性」)とリンクしていて当然だからだ。ところが、西洋音楽はもともとがキリスト教的世界観から発生したものなので、モラルが邪魔をしてなかなかそこをツッ込めない。「ソナタ形式というのは性衝動を描いたグラフである」とか「楽曲の形式はオルガスムスのフォームから生まれている」などと主張すれば即ヘンタイの烙印を押されそうだし、男の音楽・女の音楽…を敢えて研究しようとすればセクハラ案件になる可能性の方が大きい。その点ではダーウィンの時代とは逆の意味での研究者受難の時代なのかも知れない。

それでも、ヰタ・セクスアリスや「性への目覚め」は人間が人間であることの根幹。人間が人間であることを知るのに無視できない最重要部分であることは間違いないのだから、音楽の謎を探る試みや人間の後を継ぐAIの制作がこの根幹をスルーできるわけもない。…などと、すっかり枯れてしまってからそんなことを憂いてももうどうしようもないのだが(笑

2019年1月27日 (日)

音楽の(無駄な)考古学

Picturem

J.ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」やハラリ「サピエンス全史」などに書かれた有史以前の人類の文化の考察は、何度読んでもわくわくするのだが、そこにどういう「音楽」があったのか、は残念ながら全く記述がない。

それは当然な話で、リズムや歌は化石や遺物として発掘されたりしないからだ。考古学的に確認できるのは、明らかに「楽器」として使われたと分かる骨の笛や琴などだが、それは(ごく一部の例外を除いて)最も古いモノでも紀元前六千年ほど前。その後、紀元前三千年ほど前(いわゆる古代文明の時代)には世界各地で普通に「音楽」が演奏され研究されていたことが絵や文字の情報で確認されているそうなのだが(ただし、録音などあるはずもないので「音」の情報は無い)、さて、それ以前にどういう音楽が/どういう経緯で/どんな伝播の仕方をしていたのかは、サッパリ分からない。

ただ、一万数千年前頃には人類は牧畜や農耕を始めている…ということは、複数の人間が一緒になって作業をするための労働歌とか収獲の踊りらしきもの(えんやか…でも、どっこい…でもいいのだが)があったのは確実だろうし、それ以前にも、集団で狩りや戦さをするにあたって行軍のリズムや攻撃の合図や戦勝を祈る歌などが全くなかったとは思えない。

さらに昔、数万年前にアフリカから出てユーラシア大陸を横断し南北アメリカ大陸にまで辿り着いた祖先たちが、ただ黙々と何の音も立てずに数千数万キロの荒野を歩いた…と考える方が無理がある。そこには何かお互いの存在と意志を確認しあうようなリズムや歌(ほいほ〜い…でも、ひゅーひゅー…でもいいのだが)があったと考える方が自然だ。

…のだが、この話は永遠に「想像」の域から出られない。なぜなら、最初にも書いたようにリズムや歌が物証として発掘されることは100%ないからだ。というわけで、考えるだけ無駄と言えば無駄なのだが…。タイムマシンがあったら一万年前にテレコを持って行って彼らの歌を聴いてみたい。こればっかりは「夢」で終わるしかないのだけれど。

2019年1月26日 (土)

AI は音楽の夢を見るか

Picturek_2最近、音楽ではなく「音楽が生まれる以前」の夢をよく見る。

…とは言っても、中世/ルネサンスとか万葉/平安の昔の音楽とかでなく、人類がホモサピエンスになるより前、二足歩行を始めて何かを両手で叩いた瞬間(リズムの誕生)とか、唇と喉とを動かして歌とも言葉とも知れない声を発した瞬間(メロディの誕生)とか…何万年前だか何十万年前だか分からない昔の(キューブリックの「2001年」冒頭のヒトザルのシーンみたいな…)夢である。

もし「最高の知能と処理能力と情報量を持ちながら、西洋的ロジックとかキリスト教的倫理観とか機能和声とか現代風の歪んだ世界観のような邪魔なものが頭に仕込まれていないプレーンな人工知能」というのが存在するのなら、「結局のところ音楽って何?」と尋ねてみたい。でも、今のところはSiriやAlexaに聞いても、Wikipediaの「音楽とは何か?」の頁を紹介してくれるだけだ(笑

ただ、言葉で質問して言葉で返事をもらう以上、言語のロジックからは逃れられない。「返事は(言葉ではなく)音楽で」…というのが正しい回答なのかも知れない。「考えるな、感じろ(Don't think. Feel !)と言ったのはブルース・リーだったか…。「我思う、ゆえに我あり」の代わりに、こう呟く東洋風人工知能というのはいつ出来るのかしらん。

2019年1月 8日 (火)

レクイエム考

Diesirae_2NHKの音楽番組解説打合せのため、年末年始に古今の「レクイエム」を十数曲ほど聴くことになった。

レクイエムは、歌詞冒頭が「Requiem(安息を Aeternam(永遠の」で始まるため「レクイエム」と呼ばれるが、正しくは「死者のためのミサ曲」。カトリックで信仰の深さを確認する儀式「ミサ」のひとつなので、同じキリスト教でもプロテスタントの作曲家(バッハやメンデルスゾーン、ブラームスなど)は宗教曲は書いてもレクイエムは書いていない。(ブラームスは典礼文を使わずルター派の聖書からドイツ語の歌詞で「ドイツレクイエム」を書いている)

中でも有名なのは「怒りの日(Dies irae)」の部分で、世界の終末の審判の日、ラッパが鳴って死者が全て集められ、天国に行く者と地獄に落ちる者とが選別される…という怖いヴィジョンが歌われる。グレゴリオ聖歌の中の有名な旋律は、ベルリオーズの幻想交響曲など多くの作曲家の作品で印象的に登場するし、モーツァルトやヴェルディのレクイエムにおける「怒りの日」は衝撃的かつ圧倒的な音楽だ。

ところがこの「怒りの日」、ラテン語の典礼文の中に昔からある正式なものではなく、13世紀に創作されたもの。しかも、その目的はというと(見も蓋もなく言ってしまえば)カトリックの教会が「地獄は怖いぞ」「信心が薄いと地獄に落ちるぞ」と不安を駆り立て、地獄に落ちたくなければ「教会に献金をしなさい」という流れに持って行くため(実際、16世紀には教会がそのための「免罪符(贖宥状)というものを大々的に売り出している)だったのらしい。

当然「それはあんまりな話だ」「教会の堕落だ」と抵抗(プロテスト)する人が出て来て、結果「プロテスタント」と呼ばれる反カトリック的な宗派が出来た(…と以前、池上彰氏の番組でも説明していた)。そう聞くと、レクイエムの名品を聴いて感動しつつも、なんだか複雑な気持ちになる。

Faure

そのせいか、フォーレのように、カトリックでありながら「怒りの日」を外したレクイエムを書いている作曲家もいる。プロテスタントとまでは行かないにしろ「怒りの日」のヴィジョンには本能的な違和感を感じたからかも知れない。(私も1990年に書いた交響曲第2番の中にレクイエムの楽章を器楽的に組み込んでいるが、Introitus/Kyrie/Offertorium/Sanctus/Agnus Dei/Libera Me…の6部分で、典礼文は使わずDies Iraeも入っていない)。

ちなみに、現代(1960年代に行われたバチカン会議以降)では、「怒りの日」は不安や恐怖を強調しすぎていてふさわしくない、として正式な典礼の項目からは廃止されているのだそうだ。(なので、怒りの日が入っていないため「異教徒的」と批判されたフォーレの作も、現代では晴れて正しいレクイエムの形と承認されたことになる)

・・・蛇足ながら、むかしオーケストラのコンサートでヴェルディの「レクイエム」が演奏されたとき、インドから来た音楽家の方が「誰か亡くなったのですか?」「誰も死んでいないのになぜレクイエムなど演奏するのですか?」と心底驚いていたのが印象的だった。

彼によれば、音楽は世界/宇宙の調和を奏でるものであって、朝には朝の、春には春の「調べ」を奏でるのが基本。誰も死んでいないのにコンサートホールでレクイエムを演奏するような「世界の調和を見出すようなこと」をするから戦争が起こるのです!と説教された憶えがある。

なるほど、音楽にも戦争責任があったのである。

2016年1月 7日 (木)

ブーレーズ氏追悼

_57ピエール・ブーレーズ(1925〜2016)氏が亡くなった。

作曲家として1950~60年代、指揮者として70~80年代に音楽界の新しい道を切り拓いた鬼才であり、多くのことを勉強させていただき、色々な面で(間接的かつ野次馬的ながら)お世話になった尊い先達でもある。

合掌。

2015年6月24日 (水)

パート譜にがいかしょっぱいか

Printc_2 今は昔、作曲家として仕事を始めた1970~80年代頃、渋谷のNHKの近くの「プリントセンター」という写譜(浄譜)の会社に随分通い詰めた。なにしろオーケストラでもアンサンブルでも、作品を書き上げてまず真っ先に楽譜を持って行くのがこの「写譜屋サン」だったからだ。

むかしから作曲家と写譜業というのは切っても切れない仲。作曲家が書くのはスコア(総譜)というオーケストラ全部の楽器を書き込んだ数十段に及ぶ楽譜だが、それだけでは音も出ないし演奏も出来ない。演奏して貰うためにはそれぞれの楽器が演奏する音符を抜き書きした「パート譜」というのを作る必要がある。この…スコアからパート譜に書き写すのが「写譜」(あるいは作曲家の手書き譜を清書するので「浄譜」)という仕事である。

現代でも、放送局のまわりではドラマの音楽から歌謡曲の伴奏などに至るまで毎日毎日膨大な作曲編曲の楽譜が生まれ、毎月毎週毎日スタジオやコンサートホールに供給される。それを「早く・正確に・間違いなく・読みやすく・譜めくりしやすく」、しかも全て「手書き」で行っていたのだから大変な仕事である。私もデビュー以来、現代曲の新作からテレビやラジオの音楽まで、(貧乏時代に自分で制作したモノ以外は)《プリントセンター》か写譜専門の《ハッスルコピー》のお世話になっていた。

その後、プリントセンターはNHKプリンテックスとなり、さらに放送局関連の印刷や制作を総合的に行うNHKビジネスクリエイトとなり現在に至る・・・のだが、その「楽譜制作」部門、今月で業務終了になるのだそうだ。最近は楽譜も原稿と同じくほとんどコンピュータ制作してデータでやり取りする時代になり、写譜や浄譜の世界もかなり様変わりしたから、これも時流ということなのだろう。

とは言え、デビュー以来40年近い付き合い…しかも一番辛く苦しい時代の記憶が色々ある身としては…名残惜しい…とか、感慨深い…というような言葉では片付けられない複雑な情が背中を這い上がってくるのを感じつつ、思いにふける。

2015年4月14日 (火)

田園のトォテテ テテテイ

BeethovenpNHK 502スタジオでFM「ブラボー!オーケストラ」5月分2本の収録。

5月10日(日)放送分は、ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」ほか。阪哲朗指揮東京フィル(第857回オーチャード定期より)
5月17日(日)放送分は、ワーグナー:ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」より第1楽章(p:仲道郁代)、同:交響曲「ウェリントンの勝利」。飯守泰次郎指揮東京フィル(第62回午後のコンサートより)
          *

No6
ベートーヴェンの第六交響曲…と言えば、なぜか思い出すのが宮澤賢治の「セロ弾きのゴーシュ」。彼が所属する町のオーケストラ金星音楽団が練習していたのが(おそらく)この曲で、冒頭、楽長(指揮者)が練習途中「トォテテ テテテイ」の処でセロが遅れたのでやり直し!と叫ぶところから物語は始まる。

さて、これは何処の部分なのだろう?というのが昔から気になっているのだが、以前は、第1楽章冒頭のテーマ後半(上)や第3楽章の同じくテーマ後半(中)あたりを思い浮かべていた。しかし、「チェロが遅れる!」と指摘されていることを考えると(どちらもチェロでは弾いていないので)どうも違う。それに、その前後ではトランペットもクラリネットも鳴っているらしい(原典参照)ということになると…。

おそらく有力候補は、終楽章の26〜27小節あたり(下)だろうか。その直前25小節からトランペットが登場し、チェロ・ヴィオラ・ホルン・クラリネットによるテーマ斉奏になる。この部分後半が「トォテテ テテテイ」。当然チェロが遅れれば目立つし、楽長が「今の前の小節(つまり25小節め)から」と振り始めるのも納得できる。さらに「このへんは曲の心臓なんだ。それがこんなガサガサしたことで」という指摘も有り得そうだ。賢治サン、如何?

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